<次週主日予定> 
9月23日 聖霊降臨後第18主日 
聖 書  マルコ9:30-37 
説 教  仕える者となりなさい  
聖歌236、421、379、582、383  
ゴスペル賛美 主に罪をゆるされ 


今週の15分メッセージ    

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9月9日の説教 「みことばを実行する人」ヤコブ1:17-27
天地万物の造り主、歴史の支配者でありたもう誠の神様、私達をこの礼拝の招き下さり、みことばを与えてくださる恵みを、感謝致します。あなたの御ことばによって堅く立つ教会として、これからも進んでいくことが出来ますように。あなたの御名が高く崇められますように祈ります。神様、北海道を激しい地震が襲い、多くの人が亡くなったり、行方不明になっています。今も繰り返される余震におびえています。どうかこれら被災地の方々をあなたが顧み、心身の苦しみの中でも希望を失わないで生きていくことが出来ますように、お支え下さい。また教会のために祈ります。どうか私達一人一人をあなたの恵みによって顧みてください。体調のすぐれない方をあなたが日々いて支えてくださいますように。更に私達の教会が計画している全てのわざを祝福し、あなたの栄光を現せてください。今週も松田町とその周辺に住み方々をあわれんで下さいますように。

ヤコブ1:17-27
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
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ヤコブの手紙のヤコブという人はイエスさまの実の兄弟です。弟になります。
この時はエルサレムの教会ではリーダー格であったと思います。
書かれた背景ですが、聖霊降臨の後、教会が誕生し、大きく成長するわけですが、教会の中に様々な問題が起こってきました。今までユダヤ人の場合、律法的な信仰に生きていたわけですが、やはり律法はきちんと守らなければならない。一方で、いやただ信じていればそれでいいのだ。
皆さんもご存知ですが、パウロは信仰を強調しましたが、ヤコブの手紙の特徴は「行いの強調」にあると言われています。実際的、具体的なことが書かれています。全体で5章、私も読んでみましたが15分あれば読めます。
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1章17節から21節は、完全な賜物の源である、御ことばを受け入れることの大切さを教えています。
面白いことが記されています。「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」
聞くことと、語ることと、怒ること。よく「聞く耳を持たない」といいいます。
人間の本質は、頑固でかたくなですから、聞く耳を持たない。しかし、口は達者に語る。私たちの特徴です。聞かないで、語る人は、自己主張するわけですから、それが通らないと怒るわけです。
ルカ福音書のマリヤとアリアのはなしで、マリヤは聴く人でした。
イエスさまは、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃいました。
まず、第一に御ことばを聴く人になる。素直に受け入れる人になることが大切です。
21節の後半、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」御ことばによって救われます。
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22節からきょうの本題になります。
「御ことばを実行する人になりなさい」
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

ここもユニークなことが記されています。「生まれつきの顔を鏡で見る人のよう」というのです。
そして「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」
たとえば洗面所で自分が写っている鏡をチラッと見ます。「生れつきの顔」というのは、神を知らない。生まれっぱなしの野性的な、動物的な顔。悪く言うと自己満足を常に求める顔。

顔はその人の性格や性質、人格の本質を表します。10人いれば、10人の顔がある。自分の生きざまが顔に出る。良くも悪くも人の前に、神の前に、自分の生き恥をさらすわけです。
その顔が汚れている。家に帰ったら洗うとか、ふき取るとか、女性なら御化粧するとか、何か処置をしようとします。顔のよごれをなんとかしようとします。しかし、そのことを忘れてしまうというのです。

25節、「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」

完全な律法、自由の律法というのは、心に刻まれた聖書のことばです。
それを忘れないで、実行するというのです。聞いて実行しなければ、聞いたことにならないのです。
子どもがお母さんから「お使いに行ってちょうだい」と言われて、大きな声で「ハイ、わかりました」と言ったところで行かなかったら、聞いたことになりません。

聖書のことばは、聞いて実行しなければ、聞いたことにならないのです。実行する人は、「その行ないによって祝福されます。」行いは救いの条件ではありませんが、その人は神の祝福を受ける。

1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

「くつわ」という難しい言葉が出てきます。馬に手綱をつけるための金具のことです。舌が制御されてない状態。宗教という言葉が出てきます。私たちは、「キリストの福音」という言い方をしますが、キリスト教も宗教のひとつだといわれれば、広い意味では確かにそうです。ここで宗教とは、宗教行事、儀式、あるいは形、セレモニーのことです。最近はセレモニーホールがあちらこちらにあります。
礼拝に出る。洗礼を受ける。聖餐を受ける。讃美歌を歌う。献金をする。
形や儀式がどうでもいいとは言いませんが、その形に中身、心が伴わないなら、それこそ宗教になってしまうわけです。

1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 

ここでは「孤児や、やもめたちが困っているときの世話」とあります。古代社会には孤児ややもめという人達がたくさんいて、貧富の差がありました。この当時でも今でいう社会福祉事業のような活動があったわけです。今でいう、お互いに助けあって生きていく。

教会に来ました。ハレルヤ、私は救われました。それは感謝なことですが、
「あなたがいてくれて助かった。ありがとう」と言われるようなことが、できればよいと思います。
与えることによって与えられる。人助けという大袈裟なことではなく、小さいことでもいいのです。
みことばを実行する人になる。

聖書に最も大切な言葉があります。
福音書の中に、律法学者たちがイエスに対して「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問したときに、イエスさまが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これが最も重要な第1の掟である。第2は「隣人を自分のように愛しなさい」。

要するに「神を愛するということ、隣人を愛するということ」
「神を愛する」ことは信仰を意味し、「隣人を愛する」ことは行為を示す。
実行することよって信仰は意味を持ちます。
私たちは深い意味で、あなたはどう生きるのか、問われていると思います。

祈ります。