今週の15分 ワンポイント メッセージ    

礼拝説教をスマートフォンでも聴くことができますが、データがキャッシュされるまで読み込みに時間がかかる場合があります。ブラウザは「Firefox」か「Google Chrome」をご利用ください。

7月8日の説教「イエスさまの郷里での伝道」マルコ6:1-6
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
----------------------------------------
イエスさまは、今まではガリラヤ湖畔で宣教活動をしていましたが、活動の範囲を広げます。
1節、イエスさまは郷里に行かれた。郷里というのはナザレことです。郷里というのは、人それぞれ思いがあります。
皆さんも郷里に帰られるでしょうか。どんな町で、今、そこには誰がいるのでしょうか。プライベートな話しです。郷里は、自分の内側をさらすわけですから。喜んで話せる人もいれば、そうではない人もいます。まわりの人は自分をよく知っているだけに福音のメッセージは届きにくい。イエスさまが郷里にお帰りになって会堂で教えたのは良かったのですが、人々は驚いてしまった。小さいときからよく知っている人ばかりでした。すごいな、びっくりしたよ。どこで修得したのか、というのです。
3節で「この人は大工ではないか。」と。この当時の大工さんは、家を建てることの他に家具なども作っていたようです。さらに農機具など鍛治屋さんのようなことも行っていたようです。ついこの間まで作業着を着て一日中、汗を流しているのをご近所の人は見ていますから。同じ3節の「マリヤの子」ということば。当時のユダヤでは父親が死んだときでも父親の名前を付けます。イエスさまの場合、「ヨセフの子」になるのですが、父親が誰なのかわからない場合には、母親の名前をつけたようです。そして他の兄弟や妹の名前まであげています。
それほど悪気があったとは思えません。しかし、「大工ではないか」「マリヤの子ではないか」という言い方は、あまり感じが良くない。考えようによっては大工さんを馬鹿にしたような言い方です。
「人は見かけ」という言葉があります。イエスさまが高名な律法学者なら「故郷に錦を飾る」ではないですが、絶讃したかも知れません。あるいはご両親が健在なら「マリヤの子」とは呼ばないかも知れません。3節の後半「こうして彼らはイエスにつまずいた。」、実につまらない理由でイエスさまを拒絶してしまう。

6:4 「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
預言者は神の人で人の罪を厳しく責めたてて悔い改めを迫る。神のことばを受け取る方は、預言者の人間的な部分にとらわれてしまう。人を見かけで、あるいは肩書で判断する。それがあたかも全てであるように決め付ける。それは私たちの中にもあります。それは神を信頼することにはならない。
だから5節で、イエスさまは「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。」とあります。ここがきょうのポイントになります。それでも病人が何人か癒やされたのだから、それでも良いのではという人がいますが、人間的な、肉的なことに囚われてしまうとき、神の力は何一つ働かないのです。そうして神の恵み、聖霊の働きを遮断してしまう。6節で「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」、あきれて物も言えない。このときのイエスさまの感情です。イエスさまの最も近くにいた人達、誰よりもイエスさまを知っている人達。家族や親族が不信仰であった。

そう考えると私もしょっちゅう不信仰になります。お金がないから。能力がないとか。人がいないとか、上げればきりがない。否定的な要素のみを考えてしまう。それは事実ですから、無理もないのですが、これは私たちの弱さです。

 

第二コリント
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」弱い人ほど神を信頼します。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
きょうの話しとしては「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」聖書を読むと、近くの村々では再び力強いわざがなされています。

きょうの個所をふり返って言えることは神のわざは平凡な日常の中で働くのです。その人が無名であろうと、「大工さん」であろうと「マリアの子」であろうと、ごくごく普通で、平凡なところで神のわざがなされる。
きょうは信仰のあり方がテーマになっています。結論としては神さまは人間の信仰に左右されるお方ではありません。しかし、人間の信仰に応じて働くことも事実なのです。人間的なつまらないフィルターを取りはらうとき、神の御手が動く。そして御名の栄光を崇めるようなわざがなされるというのです。

 


  新会堂建築計画