今週の15分 ワンポイント メッセージ    

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6月17日のメッセージ 「神の国は成長する」マルコ4:26-34

4:26,また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、4:27,夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。4:28,地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。4:29,実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」4:30,また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。4:31,それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、4:32,それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」4:33,イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。4:34,たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
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26節「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」とあります。種が撒かれると成長して大きな樹木になる、というイエスさまのわかりやすい話しです。ところが、「神の国」とは何か、「神の国」の定義、これがかなり難しい。ギリシャ語では、バシレイア「王の支配」という意味。ひとことで言いますと、「神の支配・神の統治する国」、「天の御国」、「御国」ともいいます。旧約聖書では、ユダヤ民族の政治的独立や繁栄と重なります。新約でイエスさまはそれを、神の福音、罪の赦し、あるいは救いとしました。そして「時は満ちた,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とおっしゃた。

しかし、そう言われてもぴんとこない。当時の人々は「神の国は」いつ来るのかと尋ねた。イエスさまは「『ここにある』『あそこにある』というのはなく、あなたがたのただ中にあるのだ。」と。更に「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天になるごとく 地にもなさせたまえ…』、また「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ともいわれました。それは神さまが与えてくださる愛、喜び、平安、勇気とも言えます。あるいは毎日祈る、祈りの課題の成就、究極的には永遠の救いでもあります。当然、神の国には国籍があります。「私たちの国籍は天にある」 (ピリ3:20)
よく教会は神の国の出先機関、大使館のようなものだといわれます。そうすると私たちは神の国を建築するの働き人であり、そのために祈る人ともいえます。しかし、教会は神の国の出先機関、大使館のようなものだといわれても実感がない。特に日本のクリスチャンは少ない。社会的に弱い集団です。そして神を知らない人々に囲まれて右往左往している。お金もない、力もない、能力もない、人も少ない。考えてみると、からし種のようなものです。小さな吹けば飛ぶような種。ガリラヤ出身の弟子たちも、最初は小さな集団から始まりました。当時のユダヤ教、ローマ帝国と比較すると全く取るに足らない小さな集団からスタートしました。しかし、現在、神の国は全世界に広がっています。誰が想像したでしょうか。12弟子のペテロやヤコブ、ヨハネが想像したでしょうか。それは人間業ではないのです。

きょうのポイントは、27節、「人は夜寝て朝起きる。そうこうしているうちに芽を出す。」28節、「人手によらず実をならせる」で、ここを読む限り、すべてが神の働きだというのです。神の国は、神ご自身によって大きく成長する。そして必ず完成するというのです。聖書の最後は、ヨハネ黙示録ですが「神の国」が来るようにとの祈りで終わっています。アラム語で「マラナ・タ」、アーメン、主イエスよ、来て下さい!(黙示録22:20)つまり人間業ではないのです。人間の能力でなしうることではないのです。

人間の支配は、金の力です。数の力です。全てがそうだとはいいませんが、時には弱いものを犠牲にして成りたつ力。支配です。そういう金の力数の力が大きくなっても人を幸せにしません。神の国はまったく逆。わずかなもの、小さいとるに足らないようなものから始まります。種は聖書のことばであり、真理の種が人の心に播かれます。弱い人、社会の片隅にいる人であっても、だれも予想できないような大きな結果を生む。その大きな結果は人を不幸にしません。愛、喜び、感謝を生み出す。そればかりではなく永遠の命、罪の赦し、神の子とされる喜びを与えます。繰り返しますが、人間業ではないのです。人間の能力でなしうることではないのです。私たちの常識を越えた驚くべき神の働きです。聖霊のお働きです。使徒パウロも宣教をたとえで説明しています。コリントの手紙で「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」イエスさまは種を撒くためにこの世に来られました。そして最後は刈入れのために再臨する。4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

この真理を理解するとき、何も心配は要りません。結果は全て神に委ねることができる。27節、「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。」それは夜寝ている間に起こります。人間の努力とか、頑張りではありません。まさに神業です。何もしなくて良いのです。結果は全て神に委ねれば良いのです。ここできょうのメッセージは終わっても良いのですが、まとめとして33-34節が語られています。


4:33,イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。4:34,たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

 

イエスさまは、ご自分の弟子たちにはすべてを解き明かしました。弟子たちには真理の全てを話したのだけれど、他の人には話さなかったのです。考えるとえこひいきのような少しいじわるな話しで、すべての人に神の真理を話したわけではないのです。「弟子入りする」言葉があります。花道、茶道、相撲、将棋、噺家に至るまで、その道で将来自立する。そこで道を極めた「師匠」に弟子入りする。当然、師匠は、弟子入りした人にはすべてを教えます。イエスさまに召しだされた人達です。神の側にいる人です。神に自分を献げた人達です。今、イエスさまは私たちにキリストの弟子になることを求めています。神の国を建築するの働き人です。そのために祈る人です。そして種を撒く人です。「おまえはどうなんだ。どう生きるのか」と聞いています。
ぜひ良き決断をしてください。

祈ります。

  新会堂建築計画