3月4日説教  「召された者」Ⅰコリント1:22-25

 1:22,ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24,しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25,なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。


きょうの世界共通聖書日課、交読で十戒が読まれました。コリントを読む前に、予備知識として分かち合いたいと思います。この交読の重要聖句は最初の司式、会衆の「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れだした、あなたの神、主である。」イスラエル民族のルーツです。エジプトのことを「奴隷の家」と言っています。事の始まりは、ヤコブの息子ヨセフが売られ、奴隷としてエジプトに連れて来られました。しかし、ヨセフは神の導きでパロに次ぐ権威が与えられ、ヤコブと12人の息子はエジプトで生活することになります。
このとき20歳以上の男子が60万人に達していた。ところが時代が変わり、エジプトのパロは、イスラエル民族を奴隷として抑圧するようになる。朝から晩まで「れんが作り」その他、畑仕事などに従事させる。強制労働。まさに「奴隷の家」。そのとき神がモーセを呼び出し「奴隷の家」、エジプトを脱出します。きょうの交読は「モーセの十戒」とも言われます。十戒とは何か、今までエジプトという奴隷の家で囚人服を着ていた。しかし、奴隷から解放されたあとは奴隷の服を脱ぎすてて新しい洋服を着る。解放され自由になったなら、それにふさわしい洋服を着る。新しい生き方の規範が十戒です。信仰者の出発点。聖書の原点です。イエスさまもしばしば引用されています。「モーセの十戒」、教会に来たことない人でも聞いたことがあると思います。学校でも世界史の授業でも習うと思います。
ところが説明できる人が少ないかもしれません。「旧約聖書」を良く読まないと説明がちょっと難しい。
「わたしのほかに神々があってはならない」なぜでしょうか。?「偶像をつくってはならない」なぜでしょうか。? 
しかし、私たちにとって信仰の原点ですから、「十戒」を理解しなければなりません。これを自分のものにしなければなりません。そこで十戒を自分のものにする、身に着ける秘訣を手短に教えます。それは「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れだした、あなたの神、主である。」この聖句を理解することです。
特に「奴隷の家から連れだした」という言葉がきょうのキーワードです。自分は「奴隷の家から呼び出された」という認識が必要です。「神が私を連れだした。」という認識があれば時間がかかるかも知れませんが必ず理解します。その認識がない場合、十戒はどうでもいい話になります。いくら読んでも身につきません。
その認識がないと糸の切れたタコのように漂流します。そうすると神の言葉が力にならない。あるいは生きる知恵にならない。繰り返しますが、「奴隷の家から呼び出された」という認識があるならマスターします。
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パウロも同じことを言っています。
1:24「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」この聖句のキーワードは「召された者」です。罪の奴隷世界に生きていた者が、神に呼出されて救いを与えられるという意味で使われます。キリスト教用語ですが、「召命」ともいいます。ヘブライ語で「カール」、英語では「コーリング」。そう言われてもぴんとこないかも知れません。電話がなる。あるいは自分の携帯電話に着信が入っている。誰かから呼びだしが入っていますよ。
そのとき当たり前のことですが、自分がユダヤ人であるか、ギリシャ人であるか日本人であるか関係ありません。それは呼び出した人の問題です。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んだのです。しかし、「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」22節で、パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。」ユダヤ人とギリシャ人という二つの民族を取りあげています。今風にいうと東洋と西洋、あるい資本主義と社会主義、世界の代表的な勢力・民族をあげています。
ユダヤ人は、当時の宗教を代表する民族です。そのユダヤ人は「しるし」です。熱心に神を信じれば「しるし」奇跡が起こる。奇跡が起こらないなら宗教ではない。イエスさまをローマ帝国からの解放者としての「しるし」を求めていた。それがこともあろうに神にのろわれた者として処刑されました。ギリシャ人は「知恵」の代表格、哲学者のプラトン、ソクラテスなどそうそうたる人がいます。論理的なものの考え方。そうしてギリシャ人は知恵を誇っていました。しかし、「十字架のあがないを信じたら救われる。」理屈から言っても馬鹿げた、愚かな話しでしかないわけです。パウロは『この世の知恵をいくら積み重ねようが神を知ることはできない。』と言っています。私たちの知恵や知識の延長にその答えがあるわけではないのです。
皆さん、考えてみてください。単純に「神が人を救う方法」があるとすれば、どんな方法があると思いますか。「神のひとり子が十字架にかかることによって救われる」という人はまずいないと思います。誰ひとり、思いつかない。人間の知恵ではどうにもならない。十字架の真理は、理解できなくて当たり前なのです。どんなに知恵をいくら積み重ねようが神を知ることはできない。むしろ頭のいい人ほど理解しがたいと思います。
ではどうしたら理解できるのか。
「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」「召された者」がキーワード。召されたわかります。そこに聖霊のお働きが必要になります。神のお力添えがないと理解ができない。厳密に言いますと、召して下さった方との愛の関係、深い人格的な関係が必要になります。当然、そこに祈りがあります。
聖書のことばを全部理解できるわけではない。またさまざまな問題を抱えています。大丈夫です。何も心配することはありません。自分は呼び出されたという認識があるなら、乗り越えられます。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んだのです。必ず必要なときに神の助けがあります。ですから、神に委ねることができる。1章24節を読んで終わりたいと思います。「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

 2月25日の説教「神の愛がそそがれている」ローマ5:1-11

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
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「四旬節第2主日」の御言葉、中心聖句は
3節、4節で「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ここで「患難」とあります。先週も触れましたが、理不尽な、あるいは不条理な出来事。それはまさに「患難」です。非常に辛い出来事。しかもそれが長く続く。精神的にも肉体的にも疲弊する。新興宗教では、信じたら病気が治る、商売が繁昌する、心の悩みが解決する。しかし、聖書はそのようなことはいいません。
イエスさまも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」はっきりおっしゃっています。これは私達信仰者にとっても程度の差こそあれ、例外なくあります。皆さんもすでに理不尽な出来事の中で悪戦苦闘した経験があると思います。そのとき2種類の人がいて、苦難に耐えられなくて、気持もなえて、つぶれていく。場合によっては自ら命を絶つこともあります。しかし、それをバネにして成長する。あの苦しさがあったから今の自分があるという人もいます。
きょうはこの後者の例です。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」パウロは論理立てて述べています。5:1「ですから、」という助動詞で始まっています。4章のアブラハムにおける信仰義認の結論が語られています。25節、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」イエスさまにとって、私たち罪人が義と認められるために、十字架は避けることのできない試練でしたが、そこから復活された。新約のエッセンスです。
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。「義と認められた」というのは、皆さんも、耳にたこができるほど聞かされているわけですが、罪人であるにもかかわらず罪を犯したことのない者として神が認めてくださる。この恵みは、どんなに強調しても構わないと思います。ここに神の愛があります。5章1節から5節は、一つのモチーフになっています。「義と認められた」、その結果どうなるのかが、記されています。1節の終わりにある、「神との平和をもっています。」天地万物を造られた神を、悪いことをすると罰が当たる、という恐いイメージではなく、赦された者として、「お父さんと呼ぶことができる。いつでも祈り、賛美することができる。そこにはあたたかい関係性があります。
それが「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ということです。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
「私たちの立っているこの恵み」といっています。恵みとは、神さまの一方的な祝福。恩恵。罪のまったき赦し、神の子とされる祝福、永遠のいのちを受ける。天地万物を造られた創造主である父・子・聖霊の交わりが永遠に続くわけです。パウロは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と語っています。神を喜ぶ、「いつも喜んでいなさい。」とも他の手紙で言っています。
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そしてきょうの中心聖句
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
「患難さえも喜んでいます。」これは驚くべき言葉です。その理由を説明します。聖書が教える患難は、たとえば「迫害」、「投獄」、「貧困」、「飢きん」などです。その患難が忍耐を生み出す。
聖書でいう「忍耐」は我慢と違います。あの人は「我慢強いね」とそれが美徳のように言われますが、我慢は精神力が強くなるかのように思えなくもない。しかし我を張るわけで実際は精神的に疲弊します。そうではなく聖書は「忍耐」といいます。「留まる」という言葉が使われています。苦しさから逃げ出さないで「神に留まり続ける」。そこから「練られた品性」が生み出される。「練られた品性」とは「患難」というテストを経て神からいただく品性です。その「練られた品性」が「希望」を生み出す。希望とは、「単なる願望」とは違います。将来、物事が実現する明るい見通しです。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」この希望は、失望に終わりません。なぜなら「キリストの真実」「神の真実」に基づいていますから失望に終わりません。 それゆえに3節、4節。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
素晴らしい言葉です。ぜひこの聖句を「座右の銘」にしていただきたいと思います。神を信じて歩む。いいことばかりではありません。つらい時、悲しい時、あるいは勇気が欲しい時に、背中を押してくれるような言葉がほしいものです。人生は山あり谷あり、悩んだり凹んだり落ちてしまう時があります。ぜひこの聖句を聖書を暗誦していただきたいと思います。そこできょうの結論です。なぜ患難を乗り越えられるのか、それは神の愛です。5:11「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」私達の心に、聖書が語る無条件の愛はありません。私たちは見返りを求める愛です。価値あるものだけを愛する愛です。その根底に自己中心があります。しかし、神の愛は、価値なきものに注がれる愛、見返りを求めない愛です。「私たちに与えられた聖霊よってと言っています。」「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」もう一度、3節、4節を読んで終わりたいと思います。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 

祈ります。

主日メッセージ・アーカイブス

2月18日の説教  不条理を乗り越えて 創世記22:1-18
創世記22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。22:15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」


ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
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先週の水曜日から「四旬節」に入っています。イースターまでの46日間ですが、教会によっては「受難節」。ギリシャ正教会、ロシア正教会系は「大祭節」とも呼びます。この期間中、信仰者は、主イエスの十字架の死をしのび、 悔い改めと祈りに時間を当てる。私たちは、イエスさまは「なぜ十字架にかからなければならなかったのか」もう一度考えなおす。そのための聖句が選ばれています。

そういわれても、ぴんとこない人もいると思います。「処刑された人が、なぜ私たちの罪のために自身を捨てたと言えるのか。」十字架と今の自分が結び付かないかもしれません。私なりに少しわかりやすい話をします。よくご存知ですが、東日本大地震による災害。また福島第一原発による災害、今年の3月11日で7年目になります。そこで亡くなられた方々、いまだ行方不明の方々、家や財産をなくした方々。なぜ自分が被害者になったのか。とうてい納得できないのではないでしょうか。その点、十字架のキリストと東北大地震の被災者と、不条理という点では似ています。しかし、よく考えてみますと、程度の差こそあれ誰もが経験します。人はみな平等だと思われがちです。しかし、自分の親を選べません。国籍も選べません。あるいは生活環境も選べません。自分に問題があるというなら、まだわかります。皆さん、「なぜ、自分がこんなに理不尽な扱いを受けなければならないのか」と思われたことがないでしょうか。一見恵まれていそうな人でも、様々な原因で、なぜ自分だけが・・・と思うことがあります。人は生きている限り、程度の差こそあれ誰もが経験します。まさに降りかかる災難、つらい出来事、聖書では「試練」といいます。その不条理と思われる試練をどうやって乗り越えるのか。これが今日ポイントです。

その代表的な人、アブラハムを取りあげています。創世記22:1-2、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」やっと授かった息子イサクを全焼のいけにえとして献げよ。こんなに酷な話しはありません。なぜ、自分の息子なのか。アブラハムが25年間待ちに待って授かった、自分のいのち以上だったと思います。しかも、神さまから「あなたの子孫は夜空の星のように増える。」それがイサクから始まると信じていた。22:6「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」実に痛々しい場面です。イサクは自分がほふられるための「たきぎ」を、自分がいけにえになるとは知らず背負わさる。考えてみますと、イエスさまもひとり子。そして自分の十字架を負ってゴルゴタの丘を登る姿と重なります。しかし、アブラハムは神の愛と、神は全能であることを信じたのです。22:8 「アブラハムは答えた。『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。そして刀でイサクをほふろうとした瞬間。御使いの声が聞こえます。22:12 「御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」こうして危機的な状況が回避されます。もう一度繰り返します。「アブラハムは神の愛と、神は全能であることを信じた。」これが今日のポイントです。

交読ではローマ人への手紙が取りあげられています。8章31-39節、ここは「勝利の歌」というタイトルが付いています。8:31「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」非常に高いテンションで述べています。どんなに辛いことがあったとしても、最後は勝利する。実際に伝道者パウロの生涯は、「迫害と苦難の連続」、命の危険に遭うこともしばしばでした。しかも彼は「肉体にもトゲがあった」と記しています。おそらく慢性の病気です。8:35「 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」8:39「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」パウロは神の愛と、神は全能であることを信じた。これが結論です。

福音書は読まれませんでしたが、マルコ福音書が取りあげられています。イエスさまの荒野の誘惑です。イエスさまが、メシアとして父なる神のテストを受ける場面です。マルコ1:12-15、「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」皆さん、ご存知だと思いますが、「誘惑」と「試練」は原語が同じです。誘惑とは「神さまなしでもやっていける」と思わせることです。逆に考えると、試練でもあるわけです。イエスさまの最大の試練は十字架でした。「最も重い罪」、「最も残酷かつ残虐」、「最悪かつ極悪」といわれる処刑。聖書はイエスさまは罪を犯すようなことは何一つなかったと述べています。これほど理不尽かつ不条理なことはありません。それはそれは私たちの罪を赦すためでした。そして言われました。1:15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

旧約を代表するアブラハムの試練、使徒を代表するパウロの試練、、そしてイエスさまの試練。この三人に共通することは、避けることのできない不条理で「神の愛と神の全能を信頼した。そして不条理を乗り越えました。」このことをぜひ、実践していただきたいと思います。

    2月11日  「イエスの宣教」マルコ1:29-39
1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、
1:37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。
1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
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イエスさまの安息日の行動がほぼ「時系列」となっています。時間の経過とイエスさまの活動がかなり正確にわかる箇所で、順を追ってイエスさまの一日を確認したいと思います。21節、「安息日に会堂に入って教えられた。」おそらく午前10時くらいだと思います。「権威ある者のように教えられた」。そして「汚れた霊につかれた人」がいて、悪い霊を追いだした。そこにいた人々は驚きます。29節、イエスさまと四人の弟子達は、会堂を出たあと、シモンとアンデレの家に行きます。シモンの姑の熱病を癒やされます。この時のいやしはシモン・ペテロにとっても生涯忘れることのできない思い出になったと思います。姑も嬉しかった。31節「もてなした」とあります。このとき、おそらく昼食が出されたと思います。シモンの家族とも御交わりになり、午後になっていたと思われます。32節、「夕方になった。」安息日が解除され、律法の規定に触れない時間帯で他の箇所では日没ともいいます。一般に安息日が終わるのは夕方6時です。このとき続々と病人がかつぎこまれました。「病人や悪霊につかれた者がみな」、「町中の者が戸口に集まって来た。」と述べています。誇張されていると思いますが、評判は至るところで広まり、戸口にたくさんの人達が集まりました。次々と病んでいる人がかつぎこまれる。まるで野戦病院のような状況だったと思います。いやしのわざは深夜まで続いたでしょう。
この一日は「イエスさまのご生涯を象徴する一日」といわれています。寝る暇もない。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とおっしゃっています。マタイ福音書では、イエスさまは「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とも述べています。更に「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」と。お休みになる時間は全くありません。ただただ与え続けた生涯で、最後は私たちの罪を贖うために十字架に御かかりになった。
きょうのポイントで、その原動力はどこにあるのか。それは祈りです。35節「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」おそらく3時とか4時です。何を祈っていたのか、わかりません。「祈っておられた。」という動詞は継続を表わす時制で、「ずっと祈っておられた。」と訳すことが出来ます。決まり文句のような祈り、あるいは、ただの願い事ではなく、父なる神との深い交わりがあったと思われます。それは、「ひとり」になるためでした。他の人が介入できないような神と自分との空間が必要だからです。私達も一人になる必要があります。そのための工夫が必要で、それは充電と似ています。私もよく車のバッテリーが上がってしまうことがあります。ガソリンと同じで、どこかで充電する必要があります。私たち、ひとりひとりに与えられた使命があります。もちろん権利が大事なことはいうまでもありません。しかし、どうしても使命を優先しなければならないことがあります。それは祈りなくしてできないのです。繰り返しますが、その原動力は祈りです。神さまは私達が土の器であることご存知です。そして祈りを助けて下さいます。

ローマ8:26「 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

2月4日の説教 「権威ある新しい教え」マルコ1:21-28
マルコ 21,それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。22,人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。23,すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。24,「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」25,イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。26,すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。27,人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」28,こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
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マルコ福音書が一番最初に書かれ、マタイ、ルカと書かれたと考えています。そのためイエスさまの系図や誕生、幼年時代というプロローグがありません。出来事がどんどん展開していきます。最初にバプテスマのヨハネが現れ、荒野の誘惑、最初の弟子達を召集し、きょうからいよいよ伝道が始まりますが、会堂に入っていきなり悪霊を追いだす。ダイナミックでスピード感がありますが、丁寧に読んでゆきたいと思います。「一行はカペナウムに着いた。」とあります。一行というのは先週の話しの続きでイエスさまと、弟子になったばかりの四人の元漁師達です。「カペナウム」はガリラヤ湖畔の町で、イエスさまの伝道の本拠地です。そこで「安息日に会堂に入って教え始められた」ということです。安息日は今でいう土曜日、会堂はユダヤ教の会堂、町の公民館のような所です。今のキリスト教会の原型です。そこで礼拝と祈り、律法の朗読と解き明かしを行っていました。律法学者、長老だけではなく、会堂管理者の許可を得て他の人でも説教をすることができた。
「1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」まず「人々は、その教えに驚いた。」それを律法学者と比較しています。当時の律法学者は、モーセ律法、あるいは口伝律法、タルムードを反読し、日々学んで継承していく。博学で豊富な知識をもっていたと思います。まさに神の代理者。神に成り変わって律法を解釈する。それが仕事でした。しかし、イエスさまは「権威ある者のように教えられた」と記しています。27節でも「権威」という言葉が出てきます。
権威ということばがきょうのポイントになっています。皆さんは権威と聞いて何を想像するでしょうか。
いきなり言われてもわかりにくい言葉です。権威とは他人を自分に従わせる力。あるいはその方面で最高の人。それがイエスさまと律法学者とどのように違うのか。なかなかわかりにくいと思います。

イエスさまの権威は神の権威です。人間の権威とは全く違います。たとえば文化勲章をもらう、それは日本国が上から目線で権威づけする。「よくやった」と皇居に呼んで記念写真を撮って陛下が国民を代表して祝福する。イエスさまの場合、誰からも権威づけされる必要がない権威なのです。

そういっても私たちはわかりません。しかし、汚れた霊は知っていました。驚くべきことに神の権威に最もするどく反応したのは人間ではなかった。「1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。1:24ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」汚れた霊はイエスさまの本質と権威を知っていた。「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」そしてイエスさまが会堂に入った来られた瞬間から、自分の存在が脅かされることを恐れた。科学技術が発達した現代で、悪霊の話しをすると笑われるかも知れません。しかし、聖書ははっきりと闇の世界があることを告げています。毎日のニュースを見たり、聞いたりするときそれとなくわかると思います。私も教会に行きはじめたとき、悪霊の存在は信じられませんでした。しかし、聖霊の働きを理解し、体験し始めるとわかるようになりました。
汚れた霊、悪霊について説明しておきます。ひとことで言いにくいのですが、悪霊は私たちを神から遠ざけようとする力です。うそつき、まどわし。代表的な例はイスカリオテのユダの事件です。使徒の働きでは悪霊が奴隷の女性に特種な能力を与えてパウロの伝道を妨害します。マルコ福音書に出て来る悪霊につかれたゲラサ人の場合、裸で歩きまわり、墓場に住んで、暴力的で誰も取り押さえることができなかった。自分が何をしているかわからない。旧約ではサウロ王は、主に反抗した後、悪い霊に悩まされる。いきなりダビデにやりを投げて殺そうとする。衝動的というか暴力的になる。悪霊の働きは多岐にわたりますが、聖書は、偶像礼拝と関係があることを何度も言っています。

どこかにいるというよりも、人間は誰でも「悪魔的」になることがあります。心にもないことを言ってしまったり、やってしまう。魔が差したといいます。悪魔が心に入りこんだように変心してしまう。そういう弱さを持っていますから、どうしてもイエスさまへの祈りが必要です。主の祈りの「悪より救いだしたまえ」と祈る必要があります。

聖書ははっきりと言っています。エペソ 6:12,「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」イエスさまがおられるところ、神の臨在のあるところでは悪霊は活動できません。Ⅰヨハネ 3:8,「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」「1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」イエスさまは霊の世界も支配する。私たちをきよめ、力を与える。これが神の権威です。

神の権威とは、ひとことで言うと「言葉が出来事になる」。読み過ごしてしまいそうなことばですが、今日のテキストでは21節「会堂にはいって」の「はいって」という動詞。28節、「評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」の「広まった」という動詞。「はいって」と「広まった」がペアになっています。イエスさまは外から傍観し、眺めて大変だね、とおっしゃっていたわけではないのです。「入る」ことは当事者になることです。イエスさまは、まさにそのために父なる神の御元からやって来られた。事が起こります。そして「イエスさまの評判がガリラヤ全地の至る所に広まった。」これは言葉の広がり言葉の拡散です。

神の権威とは、ひとことで言うと「言葉が出来事になる」。私たちは今、聖書を読んでいて、そこでイエスさまと出逢うことです。キリストは見えない、触れないけれど、今も生きて働く。
「ヘブル 13:8,イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。マタイ 28:20b,見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」私たちは大丈夫です。安心してください。そうして聖書の言葉を神の愛を体験していく。そしてイエスさまの権威、神の権威をお伝えし、まわりの人に分けあたえていく。それが教会の働きとなります。

祈ります。

1月28日の説教「イエスに従う」
天地万物を造り、御心に従ってこれを保持してくださる全能の神様、1月最後の日曜日、私達のこの礼拝に呼び集めてくださったことを感謝申し上げます。どうか私達一人一人をあなたの恵みによって顧みてください。兄弟姉妹達のために祈ります。寒い日が続いていますが、ひとりひとりをお守り下さいますように。施設にいる方、事情で出席できない方。様々な問題を抱えている方を支えて下さい。また、きょうもあなたの御ことばによって私達一同を強めてくださいますように祈ります。松田町と近隣に住む方々に祝福がありますように。主の御名によって祈ります。
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Ⅰコリント
7:29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。
7:30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
7:31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

 

きょうは交読にコリントの手紙が取りあげられています。
マルコ福音書の理解のために少し触れておきます。差し迫った状態がひしひしと伝わってきます。ひとことで言うと緊張感、切迫感です。パウロは「時は縮まっています」。残された時間はわずか。「妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。」泣くとか、喜ぶとか、人間の営みです。嫁さんがいるから大丈夫だ。ご飯も作ってくれるし、風呂も沸かしてくれる、掃除もしてくれる。心配は要らない。しかし、いないと思えというのです。ダンナがいるから大丈夫だ。稼いでくれるし、年金もある、退職金もある。あとは優雅に暮らすだけ。享楽ということばがあります。人生楽しまなければ嘘。しかし、いないと思えというのです。享楽を人生の目的とすることを聖書は非常に嫌います。それを肯定する言葉はないと思います。なぜか、「この世の有様は過ぎ去るからです。」「残されることわずか。」というのです。
背景には、終末、つまり主イエスの再臨があります。誤解してないでください。他はどうでもいい。家族や友だちはどうでもいいと言っているのではありません。こんなはずではなかったという神さまを計算に入れない人生。聖書の言いたいことは、朽ちていくものにしがみつくのではなく、朽ちないものを見いだす。永遠に変わらないものを見いだす。魂の問題、生きるか死ぬか、そこに希望があるのか、ないのか。その状況が非常に切迫している。時が縮まっていますよ。この世は過ぎ去りますよ。あなたは大丈夫ですか。? のんきにしている場合ではないですよ。先週のニュースで、JR常磐線の車内で女性が赤ちゃんを出産したというニュースがありました。陣痛が始まると一刻を争う事態になるわけです。たまたまとなりにいた女性が機転を利かし、柏駅で非常ボタンを押して電車を停めて救急車を呼んだ。

 

あなたが主イエスを信じてもいいし、信じなくてもいい。
時間のあるときにゆっくり考えてください。のんびり行けばいいよ。人生長いんだから。そう考えるならアウトです。終末とか、イエスさまの再臨がよくわからないという人は、こう考えてください。朝起きたら、顔を洗います。そのとき鏡に写る自分の顔を見てください。あるいは顔を洗った手やほっぺを撫でてください。すべすべしていません。残された人生わずかです。「時が縮まっています。この世は過ぎ去ります。」あなたは大丈夫ですか。?
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そこでマルコ福音書を読みたいと思います。
1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

神のひとり子、イエスさまの就任第一声です。二つの聖句、分かりやすくて要を得、むだがありません。これがマルコ福音書の主題になっています。バプテスマのヨハネは捕らえられ、彼の時代は終わった。主イエスの時が成就した。そして良きおとずれが宣べ伝えられる決定的な時が満ちた。真打ち登場です。15節がそのまま説教になっています。
「①時が満ちた。②神の国は近づいた。③悔いあらためなさい。そして③福音を信じなさい。
①と②は告知、③と④はアピール。「時が満ち」は、神が定められたときが到来した。旧約の預言が成就した。神が人となって人間の歴史に介入した決定的な時です。

「神の国」というのは神が支配するところ。イエスさまのいるところで「神の栄光、正義、平和、救い」を意味します。「悔い改めて」は「悔いて反省する」というのではなく「生き方の転換」です。生き方を変える。闇ではなく光に向かって方向を変える。「福音を信じなさい」は「主イエスを信頼しなさい」という意味です。特に「近くなった」というのはヘブル語で「到着する」という意味です。駅に電車が入ってくるような感じです。

私も会合で目黒の神学校に行くときは新松田から電車に乗ります。電車を待つときは少しだけイライラしています。時計を見るとすでに時間です。アナウンスがあります。「間もなく4番線に、新宿行きが参ります。足元の黄色い線まで下がってお待ち下さい」そしてプラットホームに電車が入ってくる。電車が止まってドアが開くと同時に少し緊張して乗りこみます。乗って坐席に座ると、あとは風景を見たり、本を読んだり、安心感があります。

電車が到着して、ドアが開いて、乗車するまでの時間は1-2分です。あとは新宿まで1時間半くらい。この電車に乗れるか、乗れないかは1-2分で決まる。時は切迫してるわけで、この時の決断で決まります。
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16節以下は最初の4人の弟子達の招きです。
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスさまが「ご覧になった。」と記されています。この聖句のポイントです。これは人間業ではない神の働きであったということです。イエスさまの視線を受ける、そこに祝福があります。聖霊の力が働きます。何かが起こります。自分で何かやっているようなんだけれど、神の導きがある。そこに神の愛のまなざしがある。

 

1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
ここではイエスさまが最初の漁師です。4人の男達は最初に獲れた魚です。イエスさまのまなざしがあって、従うときに4人の男達が、人間をとる漁師になります。捕れた魚が漁師になって、それがまた魚を捕る。これが宣教です。

 

1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。  
「すぐに」ということば、時は切迫しています。「すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」イエスさまに従うというのは、捨てるという一面があるわけです。聖書では「捨てる」ことを繰りかえし求めます。捨てることなしに従えません。

マタイ福音書「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

 

1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 

先ほどから「捨てる」ことの大切さを話していますが、ここでは舟も網も生活手段です。更に父ゼベダイは家族です。家族をも捨てる、ひどい教えだと思う人がいるかも知れません。

マルコ1:19-21を読むと、イエスさまは弟子になったばかりのシモンの家を訪ねました。主イエスが、シモンに「お前の家に行こう」と言われたのかもしれません。そこで家に行ったシモンの連合いの母親が熱を出して寝ていた。ですから突然の訪問は思いがけなかった。シモンは家族も捨てた。父も母も、すべて捨てて主イエスに従った。こうしてみると、シモンの家が主イエスによって救い取られていく物語がここに始まっているのです。

 

きょうのマルコ1章14節から20節まで、イエスさまだけが話をしています。
弟子達のセリフはありません。イエスさまが「わたしについて来なさい。」と言われたとき、
シモンやアンデレは何と答えたのでしょうか。? 
あるいは漁師の仕事が好きだったのか、嫌いだったのか。?
彼らの生活が豊かだったのか、貧しかったのか。
兄弟は仲が良かったのか、悪かったのか。?
あるいはガリラヤの風はさわやかだったとか。?
それは本質的なことではないのです。

 

もうひとつつけ加えておきます。神が人となって人間の歴史に介入した決定的な時が始まった。その第一声が、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」そして「わたしについて来なさい。」と。

 

皆さん、こう考えないでしょうか。万物を造られた神が人間の歴史に介入する。しかし、ガリラヤはユダヤでは片田舎です。メジャーな場所ではありません。シモンやアンデレは漁師です。無名な人達です。ごくごくふつうの人です。考えてください。松田町も片田舎です。そこに住んでいる人達もふつうの人です。

 

私たちはもう一度、この招きに応えようと思います。イエスさまの教えた神の国の真理に耳を傾けたいと思います。そしてイエスさまに従って歩みたいと思います。皆さん、一人一人が良き決断をしていただきたいと願います。

祈ります。

1月21日の説教 Ⅰサムエル3:1-10 「主よ。お話しください。」
天地の造り主、全能の父、生けるまことの神さま。顕現後第一の主日に、私達をこの礼拝に御招きになったことを感謝致します。あなたが主イエスの栄光をと愛の輝きを全世界に現してくださったことを感謝致します。またアジアのために祈ります。2月9日に開幕する冬のオリンピックに北朝鮮の参加が決まりました。互いに憎しみと暴力の連鎖ではなく、これを機に和解に繋がりますように。何よりも核兵器のない世界へと一歩近づきますように。また明日から関東でも積雪があるようです。寒さや私たちをお守り下さい。今から御ことばを分かち合いますが、話す言葉と聞く耳をお与え下さい。松田町と周辺自治体に今週も恵みがありますように。主の御名によって祈ります。

Ⅰサムエル3:1-10
3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。・・
3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。
3:7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
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「サムエルの話」、聖書日課の関係で3年に一度めぐってきます。
サムエルという名前の人が世界に何人いるのでしょうか。おそらく万単位だと思います。
純情素朴で可愛い男の子が、主に呼ばれて「はい。ここにおります。」
祭司エリも6節で「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」
サムエルに対するあたたかい配慮が伝わってきます。
自分の孫に諭すようにやさしく語りかけています。
そして「お話しください。しもべは聞いております。」実に素直です。
ほのぼのとした心温まるエピソードです。

その後のサムエルの活躍は目を見張るものがあります。
すくすく成長し、神さまに用いられる。
お年寄りと、純真無垢な坊やの心温まる話しとして皆さん、読むと思います。
ここだけ読むと、その通りなのですが、きょうは視点を変えて読みたいと思います。

きょうの話しのポイントを申しあげておきます。
読めば分かりますが、実は、それほどハッピーな話しではありません。
このエピソードの背景にあるのは、信仰の衰退、あるいは共同体の危機があります。
くだけた言い方をすると「困った状況」があります。その中で神の御手がどのように働くのか。
そのことを学んでみたいと思います。

10節で「お話しください。しもべは聞いております。」と主からの何を聞いたのか。
11節で「聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。」
聞いた人は衝撃的で、耳鳴りのように響いて、「やめてくれ」と両耳を押さえたくなる内容でした。
具体的には

<3:12-13>
 3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
 3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。

聞いた幼いサムエルは身体が凍り付いたと思います。自分が仕えていた祭司エリの家の崩壊を告げます。神の裁きの最終通告です。

<3:9>
エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」

エリはまさか、サムエルの口から自身の神の裁きを聞くとは思いもしなかったと思います。
息子達の傍若無人な振舞いに、滅びの宣告を告げるわけです。

具体的な顛末は 2:12から記されています。
そしてサムエルが語った裁きがそのとおり起こります。
サムエルの語ることは神が語ること。全く一つです。サムエル記の特徴です。

3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

その通りのことが起こります。
4:11 神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ。
4:18 彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。

神の箱が奪われ、エリ家に裁きが下ります。それぞれ悲惨な最期を迎えます。
なぜこうなったのか。冷静に考えてみる必要があります。
ここでエリの息子達だけの問題と捕らえるのは短絡的で、悪い息子達がいなければ、こうはならなかったというのは無理があると思います。もうすこし広い観点から読み説く必要があります。
そのことを共に考えてみたいと思います。

今、皆さんサムエル記を開いています。サムエル記の前はルツ記、その前は士師記です。
士師記までの旧約聖書の流れを大まかに説明します。
モーセによるエジプト脱出、約束のカナンへ向かう。出エジプト記。
荒野の旅を続けること40年、ついにカナン全土を征服します。ヨシュア記。
まさに「ダンからベエルシェバまで」征服します。
「乳と密の流れる土地カナン」はイスラエル12部族に分割されます。
そしてめでたし、めでたしではありませんでした。

そこには先住民族のカナン人いました。彼らは農耕民族で独自の宗教をもっていてバアル礼拝を行っていました。
イスラエルにとっては厄介な人達でした。扱いに困るわけでいざこざが絶えない。
ヨシュア以降、際立った指導者がいなくなりますが、それを裁かなければならない。

それが士師記です。
士師とは「治める者」あるいは「裁き人」という意味で代表的な人はギデオン、エフタ、サムソンなど全部で12人が裁き人として活躍します。それが200年続きます。この人達も完全ではありません。

更に12部族に分割された土地に他の民族が侵入してくるわけです。
代表的なのがペリシテ人で、鉄を使う人達で鍛治屋がいるわけです。
鉄のヨロイかぶとに剣、好戦的で敵意をむき出しにして戦いを挑んでくる。
ゴリアテなどは代表格です。しかも王様を中心に効率良く戦略的に挑んでくるわけです。

それに対して、イスラエル12部族は祭司中心です。
王がいません。祭司は「神の言葉」を取り次いで12部族がそれぞれ協力して戦う。
この頃になると祭司も中には堕落する祭司も出てくる。
祭司制度が機能しなくなっていく。民も神の言葉を聞かない。自分勝手なことをしてしまう。
祭司制度は少しずつ衰退していきます。同時に国も弱体化、退廃していく。

神の選民イスラエルの立場からすると、困ったことになるわけです。
その象徴的なことが祭司エリの息子達の事件です。
退廃ムードがまん延していく。私たちが聖書を読んでいても、単純にこれはまずいなと思います。

ここがきょうのポイントです。
私達信仰者がまずいなと思うとき、神さまもだいたい同じことを考えているということです。
こんなことが続くと「あんばいが悪い」と思うとき、神さまは、「しょうがないよ」とは言わない。
神さまらしい打開策を考えるわけです。歴史の支配者です。

その時に目を付けたのがサムエルです。
3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

「主のことばがまれにしかない」というのはゼロではないが、それに近い。霊的退廃。
エリの息子に代表されるように人々は自分勝手に生きていたということです。
こういう人達が用いられることはありません。

神さまらしい打開策を考えるわけです。主はサムエルに語りかける。「サムエル、サムエル」
それは日常の何でもないことから始まります。
歴史の支配者だからといってドガンと何かするわけではないのです。
何か突如、魔法の杖が動くわけではないのです。
何でもない日常の行為を通して働き始めます。
私たちも知らず知らずのうちに関わっていく。

サムエルはこのあと、旧約屈指の預言者としてまた祭司として活躍します。
最終的にはダビデに油を注ぎます。メシアとは油注がれた者という意味があります。
サムエル記ですが、主人公はダビデで、その後、ダビデ王国を築きます。
そのダビデの家系からキリストが誕生する。

きょうのポイントを繰り返します。
私達がまずい状況だなと思うとき、神さまもだいたい同じことを考えているということです。
そして神さまらしい打開策を実行します。それは日常の何でもないささいなことから始まります。
私たちは、主を信頼することが大切です。
心配することはありません。委ねて信頼する。これが本日の結論です。

祈ります。

 

1月14日の説教「神の永遠のご計画」エペソ3:1-12


3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
3:2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
3:7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
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祈ります。天地の造り主、歴史の支配者でありますところの神様、あなたの日に遠くから近くから、私達一同をこの礼拝に招いて下さり、あなたのいのちのみことばを聞かせて下さる恵みを心から感謝申し上げます。どうか、あなたの祝福をここにいる私達だけではなく、病気やその他の事情で出席できないでいる、すべての兄弟達、姉妹達の上に注いで下さいますように。あなたの御名が讃えられ、栄光がただあなたにのみ帰せられますように。世界各地に建てられた教会のために祈ります。私達の生きているこの世界にはたくさんの問題がありますが、その中ですでに十字架と復活において、すでにこの世に打ち勝っていますから、主イエスを見上げて勇気を持って生きることが出来ますように力をお与え下さい。この礼拝に終りまで親しく臨んで下さり、信仰と希望と愛を与えてくださいますように。松田町と周辺自治体に祝福がありますように。これらの貧しい感謝と祈りを死に打ち勝ちたもうイエス・キリストの御名おいて献げます。
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先週は年間聖句を取りあげました関係で本日は「公現日」の聖書個所を取りあげています。
公現日、公に現れる日と書きます。クリスマスから12日目。
伝統的にはキリストが異邦人に初めて会われた日として祝われ、 毎年、マタイ福音書から「東方の博士たち」がベツレヘムの馬小屋に誕生したキリストを拝みに来た箇所が読まれます。
「東方の博士たち」はまさしく異邦人でした。
ここがポイントで救い主はユダヤ人だけではなく、人類すべての人に救いが開かれたという意味があります。 その祝福をパウロの手紙から学びます。
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「異邦人の救い」、それをパウロは「奥義」と言っています。
新共同訳では、「秘められた計画」と訳されていて原語は英語のミステリーの語源になっています。 3節、4節、5節、6節、9節と5回出てきます。

「ベールを脱ぐ」という言葉があります。隠れていたものが姿を見せる、現れる、登場する。
今まで分からなかった正体がはっきりするという意味です。
直接的には旧約聖書のことを指しています。旧約の歴史は1600年、正典といわれる書物が全部で39ありますが、
ここを読むとパウロの興奮が伝わってきます。熱意と熱情を込めて力強く書いています。

1節では「キリスト・イエスの囚人となった私パウロが」
3節では「啓示によって私に知らされたのです。」
4節では「どう理解しているかがよくわかるはずです。」
6節では「その奥義とは」

彼のテンションが上がっているのがわかります。しかし、正直、旧約聖書をよく読んでいないと分かりません。
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そこで今日のポイントである「奥義」の意味を聖書全体から説明しようと思います。
私もうまく話せるか分かりません。皆さんなりに理解してください。

すでにご存知ですが、イエスさまの代表的な直近の弟子を12使徒とも呼びます。弟子は他にもいましたが、皆、ユダヤ人でした。土曜日には家の近くにある会堂、シナゴーグに行き、律法を学び祈りをささげていました。当時、「律法を守ることなしに救われることはない」と教えられていました。モーセの律法は613あるといわれていますが、それが「先祖たちの言い伝え」、「口伝律法」になりました。張り巡らされたフェンスのようなもので、時には聖書以上の権威があると考えられていました。同時に人を裁く基準にもなりました。これを「律法主義」と言います。

 

しかし、福音書でイエスさまは「ただ神の愛によって人が救われる」と語りました。罪人といわれている人達と食事をし、安息日であるにもかかわらず病人を癒やしました。周りにいた人達は少しずつイエスさまに惹かれていきました。その中から弟子になる人もいました。
弟子たちも、律法を守れば救われるという「律法主義」から少しずつ解放されていきます。

そして、イエスさまを信じれば、救われるとまで考えなくても祝福されるという福音を少しずつ理解していきます。

この時点でも弟子達はイエスさまのおっしゃることを完全に理解していた訳ではありませんでした。当然、律法学者やパリサイ派の人々は腹を立てました。とんでもない。やがてユダが裏切り、イエスさまは逮捕され、裁判にかけられ、2人の強盗と共に十字架につけれらました。繰り返しますが、この時点でも弟子達は、イエスさまを正しく理解していたわけではなかったのです。慕っていたイエスさまが殺されてしまった。あんなに良い人がなぜ、くらいでしかなかったのです。

 

しかし、驚くべき事が起こります。十字架で死んだはずのイエスさまが復活する。
50日後、120人の弟子達が祈っていたところに、ペンテコステ、聖霊降臨がおこります。
「十字架」「復活」「召天」「聖霊降臨」を経て、弟子たちは聖霊の力によってまったく変えられます。弟子達は、ここで初めてイエスさまのおっしゃった、あるいは行ったことを理解します。これは聖霊の働きでした。

 旧約聖書に書かれたアブラハムから始まった人類救済の歴史の全貌を理解します。 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヤコブには12人の息子が与えられ、モーセとモーセの十戒、やがてダビデが登場します。その子孫がキリストです。旧約聖書には、イエス・キリストの生涯について、約109の預言があると言われています。ユダヤ人だけではなく人類すべての人の救いであることです。

 

3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
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ここからは蛇足のような話しですが、私なりに「異邦人の救い」について二つ例を挙げます。

 

単純な質問です。当時の律法学者は異邦人をないがしろにしていました。イエスさまが異邦人をないがしろにしたことあるでしょうか。?常に弱い人達に寄り添って身体の不自由な人、病人をいやし、また罪人と言われる人達と食事をしました。


もうひとつの例
もう一度、3:5を見て下さい。「前の時代」とは旧約時代、「今」は新約時代です。
旧約聖書は異邦人を好意的に扱ってはいません。イスラエル民族は、自分達こそ神の選民だと考え、異邦人とことあるごとに戦争をしていました。ペリシテ、モアブ、ミデアン、後のバビロン捕囚、血で血を洗う戦いが繰り返されました。まさに弱肉強食の世界、憎しみと暴力です。ただし、例外もありました。たとえば「ルツ記」のルツです。このモアブの女性は異邦人で、ダビデの系図の中に入っています。「このときはまだ、知らされていなかった。」というのです。この手紙を書いている、パウロもかつてはキリスト教撲滅運動の中心人物でした。
そのためステパノが殉教しています。8節で「聖徒たちのうちで一番小さな私」、また他の箇所では「罪人のかしら」と告白しています。過去の自分とキリストに出会った今の自分と落差が大きかった。かつて暴力を振るっていた自分が、愛の人に変えられたのです。

 

「出逢いが人生を変える」と言います。
出会は誰にでも用意されているのです。 早すぎることも遅すぎることもなく 絶妙のタイミングで出逢う。パウロの場合はそれがイエスさまでした。彼は福音の伝道者になりました。

 

3:7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

 

救いは、人類すべての人に開かれ、キリストの福音は世界的な広がりを見せています。
この福音を受け入れるとき、パウロと同じように変えられる。誰であれ、罪人である私たちのために、十字架でその命を差し出して下さったイエス・キリス。その愛を信じるなら、私たちは「義とされる」。

 

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。と言われるとおりです。

 

ですから、3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

 

祈ります。

 

2018年1月7日の説教 「みことばに立つ教会」イザヤ55:11
祈ります。天地のつくり主である恵みの神様、2018年、最初の主の日に私たちをこの礼拝にお集め下さり、信仰と祈りをもって新しい年の歩みを始めさせて下さることを心から感謝します。私たちはあなたがひとり子をお与えになったほどにこの世を愛してくださったことを信じております。その信仰がなくならないように今年も私たちを支えて下さい。アジアのために祈ります。特に朝鮮半島では緊張が続いていますが、武力衝突が起こることのないように。平和的な解決が実現しますように。また教会に連なる全ての兄弟姉妹達と私たちが心にかけている全ての友のために祈ります。やめる方、体調のすぐれない方、お年を召されて礼拝に出ることが難しくなった方々を助けて下さいますように。外国人と外国に滞在する方をお守り下さい。今年どのような年かわかりませんが御ことばに、御霊に導かれる年でありますように。CSの子ども達、ののはなの親子、松田町と周辺に住む方々に祝福がありますように。
これらの貧しい祈りを一年の出発にあたり。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
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<イザヤ書 55:11>
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

 

2018年主題となる「御ことば」で、週報の表紙のページに記される御ことばとなります。
毎年、「カベナントの主張」の中から選んでいます。カベナントとは何か松田聖契キリスト教会、「聖契」という意味です。その聖契教団の特徴は大まかに6つあります。
それを2012年、今から6年前から毎年、ひとつづつ取りあげています。

 

ちなみにふり返ってみますと、
2012年「みことばに立つ教会」/2013年「キリストにある霊的訓練と成長」/2014年「神と人とを愛する教会」2015年「キリストのからだである教会」/2016年「神の新しいわざが始まる」/2017年「キリストにある自由」

 

ことしは2012年のテーマに戻ります。
「みことばに立つ教会」です。要するに「聖書のことばの確かさ」です。その解説が「カベナントの主張」という解説本があります。いわゆる聖契教団のアイデンティティー、自己同一性、自分が自分であることの認識。きょうは、その解説書をテキストにして話をします。

聖書箇所が3つ引用されています。

 

一つ目は<イザヤ55:11>

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

このことばをくどくど解説する必要はないと思います。何を言いたいのか、読めば、わかります。「わたしの口」とは神さまの口で、聖書のことば「確実」「必ず」「間違いなく」成就します。それは神の御心であり、成功させる。

 

二つ目は<第二テモテ3:16>
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」皆さん、お分かりだと思いますが、簡単に説明します。
「神の霊感」とは「聖霊の導き」の中で聖書が書かれたという意味です。
聖書は約40名くらいの「様々な人々」によって書かれました。
ダビデは王様、ダニエルは政治家、アモスは農民、マタイは税の取立人、ルカは医者、ペテロやヨハネのような漁師、パウロは律法学者、その他様々です。
1600年くらいにわたって、イスラエル、中近東など、ヨーロッパ等。様々な場所で書かれました。しかし、統一性がある。そのキーワードは「イエス・キリスト」です。

「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
教え:様々なことを教えてくれます。
戒め:これをしてはいけません。前もって注意を与えます。
矯正(きょうせい):聴き慣れない言葉ですが、例えば背骨のゆがみを治すとき矯正と言います。ここでは身体の歪みではなく、心の歪みを治すというのです。
義の訓練:義というのは神の正しさ。「訓練」は収得できるまで練習すること。
短く言えば、神の訓練。それはあなたにとって有益、助けになる、役立つものですよと。

私たちの人生、毎日が聖書のことばに訓練、トレーニングです。
学校ですと十把一絡げですが。その人、その人に合わせたカリキュラムがあります。
私たちが召されるまで続きます。そうして聖書のことばを通して「神の愛と真実」を学ぶわけです。

 

ただし、大切な断りをいれておきます。毎日が聖書のことばの訓練。この訓練に合格しないと救われないというのではありません。主イエスによる罪の赦し、それは100パーセント神の恵みです。その事実を受け入れる、それを聖書では「信仰」と言います。様々なトレーニングに合格した人だけが救われるというのではありません。むしろその逆で、救われたので「聖書のことばの訓練」を受けていくのです。

 

三つ目の言葉は<ローマ 8:17>
「子どもであるなら、相続人でもあります。」とあります。聖書のことばの確かさとどう関係があるのかなと、思われるかも知れません。この8章17節のいわんとすることは、聖書のことばによって導かれる人は、神の子ども、神の相続人となります。親が愛をもって子どもを教育することと同じです。

更に「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」
「苦難を共にする」という言葉があります。この言葉に引っ掛かるかも知れません。
皆さんに失礼かも知れませんが、「苦難」は相続したくない。私たちの本音です。
これは実際、シリアスな面を含みます。神を信頼しているのになぜ、こんなことになるのか。

 

私ごとですが、年末にある方の葬儀に参列しました。お子さんを亡くされて慰めの言葉もない。「神は愛の行為しかなさらない」というのだけれど、なぜこんなことが起こってしまうのだろうと。私たちが神に成り変わって、説明することは許されていないと思います。

しかし、私はこの言葉を読んで慰められました。
「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」
キリストの苦難とは何でしょう。それは間違いなく十字架です。何の罪もないお方が十字架で処刑される、これ以上の苦難はない。主イエスが私たちの苦難をも共に負って下さっている。
ここでは「キリストとの共同相続人」とあります。これこそ神の愛です。

 

これで解説は終わりますが、もう一度、イザヤ55:11の言葉を確認したいと思います。

これはイスラエルの民のバビロン捕囚からの解放の中で語られた言葉です。最終的にはイエス・キリストによる贖罪、十字架による罪のあがないによる救いと解放です。「わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。」とあります。この言葉は人間の言葉と対比されています。私たちは約束ごとをしても、約束を守れないことがあります。「あなたの言ったことはどうなっている。」と言われて返す言葉がない。言うことがコロコロ変わるのが現実。

しかし、聖書のことばは違います。神がおっしゃたことは必ず成就する。そのことを「聖契」、法律用語ですが英語でカベナントといいます。「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

聖書のことばを信じ、従う、そこに祝福があります。

 

お祈りします。

 

12月31日「愛されている者として」コロサイ3:12-17
12節から新しい生き方の具体的な5つの徳目「深い同情心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」があげられています。14節「愛」は結びの帯として他の徳目を束ねる信仰の根源となります。16節「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」素晴らしいみことばです。17節「ことばによると行ないによるとを問わず」、最後はすべてを主に明け渡し、神に感謝したいと思います。

12月24日「この方こそ主キリストです」ルカ2:1-20
10節に「御使い」が登場します。「おとぎ話のような話し」だと思うかもしれません。聖書で「御使い」が登場する場面は限られていて重要な場面です。私個人のあかしですが、自分の人生をふり返って色々なことがありました。そのとき自分の意思ではない力が働いた。そうとしか思えないことが何度もあり、そして今があります。それを聖書では「御使い」と人格化して表現していると考えてよいのではと思います。その根源は、主イエス・キリストです。「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあります。2017年、あと1週間で終わります。一年を振り返ってすべてが「話しのとおりだった」とは言えませんが、大切なところは、その通りだといえる一年であったと思います。そのことを心から感謝しています。

12月17日 「あかしをするために」ヨハネ1:6-8,19-28   
おもに人々の問い掛けに答えるヨハネの証言が記されています。自分は何々ではありません。と強く否定する言葉が3回使われています。それでは誰ですかとの問に「荒野で叫んでいる者の声です。」と言う。声は聞こえるけれど、顔や姿は見えないと「声」に撤しています。また「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」しもべに撤しています。自分はどんなことあっても前に出ない。どこまでもへりくだってキリストに仕える。裏方に撤する。しもべに撤する。これがあかしです。またアドベントの心構えです。

12月10日「福音のはじめ」マルコ1:1-8
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」このことばはマルコ福音書の「表題」になっています。待ちに待った、決定的な救い主がやって来る。神の救いのみわざが、ここに始まる、というのです。すぐにイザヤ書が読まれ、ヨハネが「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」とあります。「悔い改める」とは「心を変える」、「方向転換をする」という意味です。洗礼を受けるというのは、クリスチャンになる手続きとか、通過儀礼ではなく、具体的な「罪の告白」という行為が伴います。それは「本当の自分を認める」ということです。自分の罪を告白するとき、キリストの十字架による赦しがあります。神は私たちひとりひとりを招いておられます。

12月3日「主を待ち望む」Ⅰコリント1:3-9
アドベントに入っていますが、パウロは「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と挨拶します。神の一方的ないつくしみと恵みの豊かさからくる平安です。コリントの教会は多くの問題を抱えていましたが、それをうわまわる神の恵みがありました。5節の「ことば」は十字架の言葉、「知識」はキリストを知る知識です。7節の「あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく」はキリストによる満たしです。そのキリストが「最後まで堅く保ってくださいます。」。「神は真実であり、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」。キリストの再臨がいつかわかりません。しかし、私たちは目ざめて歩むことができます。

11月26日「タレントを用いる」マタイ25:14-30
主人が旅に出かけるとき自分の3人のしもべ達を呼んで財産をあずけました。最初の2人のしもべは財産を倍増しますが、3番目のしもべは財産を土の中に隠しておいただけで「悪いなまけ者のしもべだ。」と叱責されます。これは私たちひとりひとりの話で、神は私たちにたくさんの賜物を与えておられます。目的は神を愛し、隣人を愛するためです。その賜物を大いに用いることが大切です。リスクがあっても神さまは必ず私を用いて下さる。そう信じたいと思います。

11月19日「目を覚ましていなさい」マタイ25:1-13
この時期、キリストの再臨について語られます。イエスさまは「花婿を出迎える十人の娘」をたとえて話されました。「花婿」はキリストで「十人の娘」は私達信仰者です。話のポイントは油を持っていたか、どうかです。8節の油は聖霊を示します。信仰生活の原動力は、聖霊に満たされていることが条件になります。8節で「愚かな娘たち」と言っています。油の不足に最後まで気がつかなかったのです。再臨の前兆はすでに示されています。教会に集うのが困難な時代ですが、このようなときこそ、聖霊の満たしが必要です。それは聖霊の助けを得て十字架の愛に生きることです。

11月12日「たいせつな戒め」マタイ22:34-40
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」というパリサイ人達の質問にイエスさまは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」2つの御ことばをあげました。そして「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」とおっしゃいました。ローマ人への手紙に「愛は律法を全うする」とあります。モーセの十戒は神を愛し、隣人を自分自身のように愛するなら実行できます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)。神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することを日々、実践したいものです。

11月5日 「神のものは神に返しなさい」マタイ22:15-21

宮きよめ事件をきっかけにイエスさまと祭司長、律法学者と論争が始まります。彼らは議論をしたのでは勝目がないと見て隠謀を企てる。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっているか。いないか。」巧妙に仕組まれた罠でした。イエスさまが「税金を納めなさい」と言えば、ユダヤへの反逆になり、「税金を納めてはいけません」と言えば、ローマへの反逆になる。どちらをこたえても、責めたてることができる。イエスさまはデナリ銀貨に刻まれたカイザルの肖像を見せながら「だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と彼らが「カイザルのです。」と言うと「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」カイザルとは「ローマ皇帝」のことで、ユダヤに住む人は義務として納税しなさいということです。更に「神のものは神に返しなさい。」とは「神に感謝する」ことです。感謝の源は神の恵みに基づきます。私たちは、いつも神に感謝する者でありたいと思います。

10月22日「天にある永遠の家」第二コリント5:1-10
5章1節、「私たちの住まい」の「私たち」は、キリストを信じ、その教えに従っている者です。「幕屋」は旧約時代の「移動式のテント」のことで、イスラエル民族はエジプトに奴隷として働かされていましたが、モーセに率いられて約束の地、カナンに向かいます。このときに「幕屋」という移動式テントを利用しました。それは私たちの身体のことで、いつかは朽ち果ててしまいます。しかし、キリストを信じ、従うとき、神が「永遠の家」を与えてくださいます。「人の手によらない」とありますが、修業や努力によってではなく一方的な神のめぐみによって与えられます。それはキリストの死と復活を通して実現しました。写真の故人は「天にある永遠の家」におられます。私たちも神の愛にあずかりたいと思います。

10月15日「二人の息子のたとえ」マタイ21:28-32   
「二人の息子の話」、お父さんから「ぶどう園で働いてくれ」と言われ、兄は「行きます」と言ったけれど、行かなかった。弟は「行かない」と言ったが、後になって行った。単純な話しです。兄は21章23節の祭司長、長老で自分達こそ神に従っていると考えた人達。弟は当時、罪人の烙印を押されていた「取税人や遊女」のこと。「悪かったと思って行った」は「悔いあらためる」という意味があり、結果は逆になりました。父の願いは「神を信じて生きること」です。祭司長や長老達は、品行方正で見かけはいいのですが、言葉だけで最後までキリストの救い、十字架を理解することはありませんでした。信仰とは決断と実行です。いつ決断するのか。28節「きょう」です。「悔いあらためて神を信じる」とき人生は神の恵みにより祝福に変えられます。

10月8日「ぶどう園で働く労務者」マタイ20:1-16
ぶどう園は収穫で一番忙しい時期を迎え、主人は朝から夕方まで働く人を市場で探します。
「九時ごろ」「十二時ごろと三時ごろ」「五時ごろ」と4回行き、働く人を雇います。一日が終わり、主人は最初に来た人と最後に来た人に同じ賃金を払います。最初に来た人は強い調子で文句を言いますが、「私はあなたに何も不当なことはしていない。」と平然とこたえます。話しは不自然なところもありますが、最後に来た人の立場で考えるとありがたい話しです。信仰とは打算や取引ではありません。何か良いことをしたから、報いを受ける、救われるのではありません。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」。神のひとり子、主イエスが自ら来て下さり、私たちを招いています。ここに神の愛があります

10月1日「地獄からの生還」マタイ18:21-35
ゆるさない心がテーマになっています。一万タラント、今のお金に例えるとおよそ6千億円の借金を帳消しにされたしもべは同じしもべ仲間で、彼から百デナリ、今の60万円ほどの借りのある人をゆるさなかった。それが主人に知れてしまい彼は牢獄に入れられます。考えていただきたいと思います。もし主人にこのことが、ばれなかったら、この人の人生はどうだったでしょうか。 6千億円もありますから、ゴージャスな生活が保障されます。死ぬまで「うまくいった」と思い続けるのでしょうか。そうは思えません。どんなに派手な生活をしても心から喜べないはずです。彼の心は地獄です。何としてでもこの地獄から生還しなければなりません。それは私たちも自分のゆるしを知って、相手をゆるす。これ以外にありません。ここに十字架のメッセージがあります。「ゆるす」ということを私たちの力で行うことを聖書は教えていません。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)すべてを主に明け渡す。それはキリストを信じ、従うときに可能となります。

9月24日「下がれ、サタン」マタイ16:21-26
「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロはいたたまれなくなって、「とんでもない。そんなことがあってはなりません。」イエスさまは「下がれ、サタン」と叱責されました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」イエスさまは、父なる神のご意志を受けて十字架にかかるというご自分の使命を全うしなければならなかった。ペテロはそのことが理解できなかった。皆さん、よく考えて下さい。口先では「大丈夫ですよ。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」そんな「安易な励まし」をする人が十字架を負うでしょうか。十字架を負うコツがあります。それが「人のことを思わない」で「神のことを思う」。そこに必ず神の助けがあります。そこに祝福された人生があります。

9月15日 秋の特別集会 松元保羅先生(西荻窪イエス・キリスト教会)

「人生の家計簿」第一コリント15:55-58

9月10日「あなたは神の御子キリストです」マタイ16:13-20

「ピリポ・カイザリヤの地方に行かれた」と記されています。ここでイエスさまは弟子達に「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と聞き、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とこたえます。イエスさまは「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とペテロを祝福しました。核心を突く信仰告白は人間の教育や知識では不可能で聖霊の導きが必要になります。ローマ人への手紙で「神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」とあります。すべての原因と結果は神にあります。神がすべてを創造し、保持し、その御手にあります。私たちはこの方に信頼します。

9月3日「あなたの信仰はりっぱです」マタイ15:21-28 

イエスさまは、ツロとシドンの地方に立ちのかれましたが、悪霊につかれた娘を持つカナンの女性が訪ねてきました。苦しめられる毎日に救いを求め、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と懇願しますが、イエスさまは一言もお答えにならず、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外には遣わされていません。」と突き話します。しかし、「主よ。私をお助けください。」と諦めませんでした。ところがイエスさまは「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と女性の願いを3度拒絶します。しかし、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と懇願し続けました。イエスさまは「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と娘を癒やされます。彼女のひたむきで真実な愛と信仰は、民族をこえて彼女と彼女の娘を救います。今日も「主よ、救って下さい」と祈り求めるとき、主はすべての人を救います。

8月27日「叫ぶことを知る」マタイ14:22-33

先週は5千人に食べものを与える奇跡でしたが、イエスさまは、弟子達だけを舟に乗りこませ、ゲネサレに向かわせます。弟子達は、舟を漕ぐのですが、波があまりにひどく悪戦苦闘します。このときイエスさまが突然現れ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と呼びかけます。ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言い、ペテロも水の上を歩くのですが、風を見てしまって恐くなり、沈みかけてしまいます。31節の「疑う」は「思いが二つに分かれてしまう」という意味がありますが、このときペテロは「主よ。助けてください。」と叫びました。すぐにイエスさまに助けられ、「あなたは神の子です」と信仰告白に至ります。疑いは避けられませんが、叫ぶことを知っているなら、必ず乗りこえられます。

8月20日「イエスさまがいる」マタイ14:13-21 

イエスさまが五千人に五つのパンと二匹の魚で食事をさせる場面です。弟子達は 「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」彼らはイエスさまが居ることに気持が向かなかったのです。不足があまりに大きいと、どう考えても無理となるわけです。弟子達は、イエスさまの数々の奇跡を目撃し、全能の神の力が働くことを信じていたはずです。しかし、目の前の問題に圧倒され気が気でなかったのです。これが私たちの現実です。このような状況の中で圧倒的な奇跡が起こります。「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」。旧約の神が荒野でイスラエルの民を養ったようにイエスさまは、私たち導き養います。主イエスを信頼するとき、神の豊かさに生かされることを教えています。

8月13日「麦と毒麦」マタイ13:24-30、36-43
「敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。」この世には「悪い者の子どもたち」また「悪魔」が存在するというのです。毎日のニュース、どうしてと思える事件が後を絶ちません。また教会の宣教も神を信頼し伝道しますが、思うようには行きません。それは悪魔が妨害するのです。しかし、毒麦を急いで抜いてはならないと言われます。良い麦も一緒に抜く可能性があるからです。麦と毒麦は成長するとはっきり区別が付きます。その時、誤ることなく抜きさることができるのです。性急に自分の考えで他人を裁き、良い人を傷つけてしまうことのないようにしたいものです。ここに神の深いあわれみがあります。教会とはそういうところです。

8月6日「御霊の実を結ぶ」ガラテヤ5:1.13-25
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この言葉を実行しない限り世界平和は実現しません。また地球滅亡を回避することができません。まず自分自身が変えられることです。「御霊によって歩みなさい。」そのとき御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を結びます。①「愛」:相手を大切に思うこと。反対は憎しみ。②「喜び」:楽しく快い状態。反対は悲しみ。③「平安」:穏やかな心の状態。反対は思いわずらい。④「忍耐」:つらさ苦しさをじっと我慢すること。反対は短気。⑤「親切」:相手の身になって何かをすること。反対は意地悪。⑥「善意」:相手によい結果を導こうとして行なう意思。反対は悪意。⑦「誠実」:私利私欲ではなく真心をもって人や物事に対すること。反対は疑い。⑧「柔和」:ものやわらかな態度、様子。反対は乱暴。⑨「自制」:自分で自分の感情をおさえること。反対はでたらめ。これらはキリストのご品性でイエスさまに信頼し、御霊によって歩むとき誰であっても造りかえられます。


7月30日「必ず成功させる」マタイ13:1-9.18-23
きょうは「種蒔きのたとえ」で教会の宣教とは何かを教えています。当時パレスチナでは、ろばに種もみを入れた袋を乗せ小さな穴を開け、あぜを歩かせます。多くの種が無駄になります。18-23節で語られる「たとえ」は様々な要素があることがわかります。道端に落ちたり、鳥が来て食べてしまったり、いばらがあるというのです。それは仕事、趣味、家庭の仕事、さまざまな人間関係であるかもしれません。イエスさまも徒労に終わるかのような現実の中で豊かな実りを信じて種を撒き続けました。本日のイザヤ書、「種蒔く者には種を与え」「必ず成功させる」とあります。第二イザヤが書いた箇所ですが、十字架という、まったく思いもよらない方法で実りをもたらす約束が記されています。大切なことは「出て行って種を撒く」ことです。それを信じて実行するときに「必ず成功します」。それが神の宣教です。

7月23日「わたしのところに来なさい」マタイ11:25-30
イエスさまの宣教がうまくいかなかったと記されています。「イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、」(11:20-21)これには深い訳がありました。「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」人は知識や知恵が身につけば賢くなりますが、同時に傲慢になります。「幼子」は弱さの象徴で知恵も知識も能力もありません。神が望むのは、悔いあらためない義人よりも、悔いあらためた罪人です。また「子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」と父なる神のすべての権限はイエスさまに委ねられています。それゆえ聖書はキリスト以外に救いはないと教えています。しかし、どんな人にも救いの扉は開かれています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエスさまは心優しい救い主で魂に平安と安らぎと救いを与えます。私たちもイエスさまの御言葉に励まされ宣教の働きを進めたいと思います。

 7月16日 「わたしにふさわしい者」マタイ10:34-42 
イエスさまの教えは逆説に富んでいますが、その最たる個所で、イエスさまが来られた目的は、平和ではなく剣だというのです。神の真理が語られるところでは、家族に反対されたり、勘当されたりすることがおこるというのです。「見せかけの平和」というものがあります。見て見ぬふりをする偽善が根本から見直されるだろうというのです。更に平和ではなく敵対だとおっしゃしました。人は家族を美化します。そこには理想化された父母、子ども、兄弟、恋人がいます。つきつめれば自己愛です。自分の思うようにならないと、怒り、憎しみに変わるのです。イエスさまはまず、神を第一にしなさいとおっしゃいました。親を愛し、家族を愛する愛を、まずキリストから学びなさいというのです。更に平和ではなく十字架だ、とおっしゃいました。自分の十字架とは自分が掛けられて殺される十字架です。自己中心な罪、私が、私がと言う思いがどれだけ人を傷つけているでしょうか。その十字架で自我が殺されるとき、真実な平和が生まれます。そのときに私たちは家族を失うのではなく得るというのです。

7月9日 マタイ10:24-33「恐れることはありません」
きょうのポイントは28節の要約、「神を恐れなさい」です。信仰の根源はここにあります。「恐れる」は原語で畏れ敬う・つつしむ・かしこしというニュアンスが含まれます。神を恐れないなら、恐れなくてもよいものを恐れてしまうというのです。また「人としての体をなさない」ことになります。勝手に生き、悩み、死んでいくだけで最後は滅びです。謙遜とか謙虚という言葉があります。それは神を恐れることから始まります。私たちは神によって生まれ、愛され、生かされています。人は神を信じ、崇めることによって、心に平安を得ます。 聖書を読み、イエス・キリストを我が主、我が神と信じ、まことの平安を得てください。

7月2日「かわいそうに思われた」マタイ9:35-10:8
「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(9:36)は12弟子派遣直前にあります。イエスさまのすべての行動原理、宣教の根源的動機は「かわいそう」という思いです。「かわいそう」という言葉は、内蔵・はらわたとも訳せることばで、「いてもたってもいられない」状態のことばです。「羊飼いのない羊」は当時のユダヤの政治・宗教指導者たちから見離された人々を指しています。羊は羊飼なしでは生きていけません。神なき人生です。「十字架」の意味がわかりにくいという人がいます。私たちの罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかったのですが、それは「かわいそう」「いてもたってもいられなかった」、それ以外ではないのです。そうだとするとローマ人への手紙は容易に理解できます。「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)、つまり「かわいそう」という思いです。これが教会の福音宣教の原点です。

6月25日「わたしについて来なさい」ホセア5:15-6:6
ホセア書は、イスラエルの罪の歴史、ホセアの結婚、キリストによる赦しと回復が隠れたメッセージになっています。イスラエルは、エジプトという罪の中から脱出した神の選びの民で、教会は小羊であるキリストの花嫁に例えられています。にもかかわらず、人々は偶像礼拝も行なっていました。それがホセアと結婚したゴメルに例えられています。ホセアは、苦しみ、悲しみを担いますが、やがてゴメルは罪を認め悔いあらためます。そのようにイスラエルは新しく出なおそうとします。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」ところが、神は厳しいことばで拒絶します。従う神が本物でなければ意味がないというのです。結論はマタイ福音書にあります。「わたしについて来なさい」「すると彼は立ち上がってイエスに従った」。霊的回復は本物の愛を知り、本物の神を知ることです。それはイエス・キリストです。

6月18日「人生の土台」マタイ7:21-29
キーワードは24節、「聞いてそれを行う」という言葉です。21節で「主よ、主よ」と言っても「父のみこころを行なう者がはいるのです。」どこに入るのか、神の国です。聖書のことばを観客席で芝居を見る、落語を聞くように「ああいい話だね」と言って、終わる。それは結局、神の声を聞いてもいないし、キリストを信じたわけでもない。そういう人は、嵐が来たとき、ひどい倒れ方をするというのです。私たちは「これが私の人生」という自分の家があります。外から見えませんが、これだけ手放せませんという土台があります。25節では倒れなかった家の土台は「岩」です。岩とはキリストです。自分は教会へ来ているけれど、神の祝福を受けているという喜び、実感がない。それは神の言葉を聞くだけで行わないからです。「聞いて行う」決断をしましょう。あなたは神の祝福を受け、必ず変えられます。

6月11日「聖霊を受けなさい」ヨハネ20:19-23
主イエスの十字架の死から三日目、弟子達はユダヤ人の迫害を恐れ、家の戸にかぎをかけ隠れていましたが、イエスさまは彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」とおっしゃいました。そして手とわき腹を見せました。罪を赦すために十字架で死んで確かに復活したことを示すためでした。弟子達は素直に喜びます。更にイエスさまは弟子達を世に派遣します。そのとき「あなたの罪を赦します」というと神もその人を赦し、「あなたは赦されない」というと、その人の罪はそのまま残るというのです。その権限を教会に与えたのです。多くの人々は孤独感、恐怖、絶望感、無力感を抱えていますが、人は例外なく神から赦しをいただかなければ生きることができません。また弟子達に「聖霊を受けなさい。」といわれました。その和解の福音を宣べ伝えるには聖霊の働きがどうしても必要です。ぜひ聖霊を受けて力をいただきましょう。

6月4日「大宣教命令」マタイ28:16-20
11人の弟子達はガリラヤで復活のキリストとお会いします。「ある者は疑った」と記しています。疑いは「二つに分かれる」という意味がありますが、疑うことは必ずしも悪いとは言えません。私たちは疑いますが、神は真実。この繰りかえしで信仰が成長していくのです。「あらゆる国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」は福音はすべての人に開かれた神の祝福で、洗礼は単なるセレモニーではありません。三位一体の神との生きた交わりに導かれる祝福に溢れた人生の約束です。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」これ以上の権威はこの世には存在しません。更に「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」なんと祝福と慰めに満ちた言葉でしょうか。どんなことがあっても私たちの道は開け、そこに希望があります。

5月21日「もうひとりの助け主」ヨハネ14:15-21
聖霊降臨日が近づいて来ましたが、「わたしが行くところへは、あなたがたは来ることができない」とイエスさまに言われた弟子達は見捨てられたような恐れをいだきます。イエスさまは、弟子達に「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と約束し、「もうひとりの助け主をお与えになります」と励ましの言葉を語ります。原語で呼ばれた者、弁護する者という意味があります。私たちは様々な問題を負って生きてゆかなければなりませんが、必ず乗りこえる力が与えられます。それはキリストの愛を証しする霊の働きです。

5月14日「わたしを信じなさい」ヨハネ4:1-12
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」私達は自分では大丈夫だと思っていても動揺します。しかし、イエスさまは「神を信じ、わたしを信じなさい」と語りかけています。どのような背景の中で語られたのか。ユダの裏切りとペテロの裏切りです。長きにわたって信頼していた人が意に反したことをする。イエスさまは弟子達を励ますために三つのことをおっしゃいました。一つ目は「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」私達は、今は旅人でも天には永遠の住まいが備えられているのです。二つ目は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とイエスさまは父なる神とひとつですからすべてを委ねることができます。三つ目は14章12節にあります。私達は聖霊による力が与えられ時代を超えて大きな働きをします。その時に大切なことは、主イエスを信じることです。そのとき必ず力が与えられます。

5月7日「羊の牧者」(ヨハネ10:1-10)
当時、羊と羊飼による牧畜は、どこにでも見られた風景です。ところが、「羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗がいる」というのです。この悲惨はエゼキエル書が背景になっています。「門からはいる者は、その羊の牧者です」キリストの門を通ることは、十字架の贖いと理解できます。「羊はその声を聞き分けます」それは御ことばに基づく神の声です。「だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」誰であって、そこに救い、平安、自由、命が養われる恵みがあります。ペテロの手紙で「あなた方は、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。 」とあります。自分勝手な道を歩いた私たちですが、イエスさまは99匹の羊を残して1匹を探すように私たちを見つけ出して下さったお方で、羊飼なしで羊は生きることができないのです。

4月30日「心は燃えていた」ルカ24:13-35
十字架の処刑から三日目、イエスさまを慕っていた人達は望みを絶たれ落胆していました。
2人の弟子も悲しみを抱え、エマオという村に行く途中でした。ところが不思議なことに復活したイエスさまが近づきまが、弟子達の「目はさえぎられていた」とあります。クレオパという人が、エルサレムで起こったことを説明します。イエスさまは「愚かな人たち。キリストは、苦しみを受けて、栄光にはいるはずではなかったのか。」と厳しい言葉で叱責します。十字架の受難と復活が理解できなかったのです。イエスさまは、聖書全体で、ご自分について書いてある事がらを説き明かされました。村に近づくと2人の弟子は、一緒に泊まりませんかと誘います。その食卓で「イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」とき目が開かれました。イエスさまはいなくなりますが、彼らは来た道を引き返し、他の弟子達に復活を証ししました。私たちにとって復活のキリストとの出会は、御ことばとパンを裂く聖餐の時であることを教えています。

4月23日「栄に満ちた喜び」Ⅰペテロ1:3-9
ポイントは「大きなあわれみ」という言葉です。律法の行いによっては神の正しさを達成できない人間の無力さ、弱さに対する神の愛と無条件の赦しを意味します。それは主イエスが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせたというのです。それを「生ける望み」と記しています。更に神の国の子どもとされた私たちは、父なる神の資産を相続し、天に蓄えらます。5節の「用意されている救い」は神の御力によって守られます。6節の「さまざまの試練」は「しばらくの間」続きますが、「火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」のです。8節、私たちが「栄えに満ちた喜びにおどっている」根拠として、「新生」「希望」「神の資産」「神の力」「信仰」「救いの完成」が与えられます。福音はどんなに価値あるのか。この福音を一人でも多くの人にお伝えたしたいと思います。

4月16日「イエスの復活」(マタイ28:1-9)
イースターおめでとうございます。キリストの復活は人間の知識と体験の限界をこえた出来事でした。やがて驚くべきニュースが大きな波紋となって広がっていきます。その朝の様子を伝えています。2節では大きな地震、4節では主の使いが現れ、番兵達は震えあがって死人のようになったと伝えています。「ここにはおられません」というのです。注目したいのは墓に駆け付けたマグダラのマリアたち女性達です。目だたない存在ですが、福音書を読むと大事なところで女性達が登場します。更に復活のイエスさまが現れ「おはよう」は原語では「喜べ」と言われました。彼女達は御足を抱いて拝みました。また「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」10節。ガリラヤはイエスさまと弟子達の本拠地で、ガリラヤで共同体をもう一度建てなおそうとされました。それはパンとぶどう酒をいただく聖餐式とも理解されますが、イエスさまは私たちの信仰と整え復活の証人として立ち上がらせてくださるのです。

4月9日「力はどこからくるのか」イザヤ50:4-9a 
神である主が弟子として任命するときの条件が語られています。第一は疲れた者を言葉によって励ますことです。大切なことは、その前に神のことばを聞くことです。「聞くようにされる」というのは聞くことの訓練で、聞くことと従うことは同じ意味です。当然理解できなければ、何度も繰り返し尋ねなければなりません。神は必ず理解できるように教えてくださいます。「朝ごとに、私を呼びさまし、」とあります。朝が恵みの時であることを知る必要があります。5-6節は、神の御心に従おうとするとき、避けることのできない困難が伴うというのです。「恥じを見てはならない」とは失望落胆はしないことで必ず、神は助けてくださるという信頼です。このことを文字通り行ったのが主イエスです。私たちは何よりもやわらかい心で神の声を聞く人でありたいものです。そのとき必ず力は神から与えられます。

4月2日「あなたがたは生きるのです」
ローマ8:11-19
11節「イエスを死者の中からよみがえらせた方」は父なる神で、父の御霊があなたがたの内に住んでくださる。そして私たちの死ぬべきからだを生かしてくださるのです。13節「御霊によってからだの行いを殺す」とあります。禁欲主義や道徳ではありません。旧約では神の祭壇に献げる時、「全焼のいけにえ」として必ず火を通しました。それが御霊によって殺すということです。15節、私たちは祈るとき「お父さん」と呼ぶことができます。本来、人間はそう造られています。17節、神の栄光も相続しますが、苦難、苦しみも受けるというのです。それは十字架を負ってキリストに従うことと重なります。本日は、御霊の働きに信頼していく重要性が語られていますが、本当の意味での悔い改めがないところでは、御霊は働く場を持ちません。そのことを可能にするために主イエスの十字架がありました。