牧師の日曜メッセージ

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12月9日 「あらゆる人が神の救いを見る」ルカ3:1-11

バプテスマのヨハネの登場です。イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。旧約時代の最大の預言者であり、キリストを新約に招き入れる人として称賛しています。実際にヨハネの登場以来、福音の扉が開かれました。聖書は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と語っています。こうしてヨハネは「来たるべきエリヤ」として旧約と新約の橋渡しをする人となりました。
1-2節が、ルカはヨハネの登場を興味深く語っています。
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3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
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神のことばが下ったというのですが、1-2節には私たちもよく知っている名前が出てきます。
ポンテオ・ピラト、ユダヤの総督ヘロデ、大祭司アンナス、カヤパ。
エルサレムで豪勢に暮らしていた時の権力者、国の中枢にいた政治家、神殿の宗教指導者達です。
そして権力による支配と維持を追求していた人達です。
神のことばに導かれたヨハネは何を語ったのか。?
3節、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」とあります。
罪とは「神の律法に背く」ことですが、「的外れ」「すじ違い」のことです。
要するに頓珍漢な生き方です。そこからの「悔い改め」は「自分の心を変える」という意味です。
心を変えなければ、キリストを救い主として迎入れることは不可能です。
自分を変えるとは、なにか小手先で手直しすることではありません。
生き方の根本的な方向転換です。ヨハネは預言者イザヤの言葉を引用します。
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3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
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キリストが私たちのただ中にやって来られる。だから、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と。しかし、私たちの心の中は我欲でいっぱいです。主の道を用意しなさいと言われても、3節にあるようにまるで「デコボコ道」です。まるで谷や山のようになっている。しかし、罪を悔いあらためて洗礼を受けるときに、デコボコ道は平らになって、キリストをお迎えできるようになるというのです。
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3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
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きょうはクリスマスを前に、キリストをお迎えするには、具体的にどうしたらよいのかということですが、
パウロの手紙ですが、ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
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1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。
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パウロの祈りですが、私たちの祈りでもあります。ポイントは、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」「真の知識と識別力」が必要だというのです。どこから与えられるのでしょうか。それは聖書のことばです。神のことばです。ルカ福音書の個所でも、神のことばが下ったのはピラトでも、ヘロデでも、アンナスでも、カヤパでもないヨハネに下った。そのときヨハネは正しい言葉が与えられ、正しい判断ができたのです。今、情報があふれています。そして多くの人が必要のない知識、情報に振り回されてます。
愛が豊かになっていくためにはどうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要になります。そうでなければ、真にすぐれたものを見わけることができません。単なるお人好しとか、同情心があるとかはダメです。
どうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要です。神さま、私に真の知識とあらゆる識別力をお与えくださいと祈る必要があります。
このときに注意することは、「純真で非難されるところがなく」とパウロは言っています。純真とは謙遜ということです。人は知識や識別力を持つとき、思いあがるのです。
なぜ、神のことばがピラトやヘロデ、アンナスやカヤパに下らなかったのか。
それは「純真」でなかったからです。彼らは、権力による支配と維持を追求していたからです。
私たちに「真の知識とあらゆる識別力」を与えてくれるのは、とりもなおさず聖書です。それが神の国の価値観になります。このアドベントの期間、「真の知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになるように祈りたいと思います。

祈ります。


12月2日 「人の子の前に立つことができるように」ルカ21:25-36

21:25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
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聖書日課C年はルカ年になります。ルカ福音書を中心に聖書を読んでいくことになります。同時にアドベントです。
きょうの御ことばは、受難を前にしたイエスさまの言葉です。この個所は、マルコ福音書13章1節から37節とほとんど同じですが、ルカ福音書は、皆さんもご存知ですが、心理面が生き生きと書かれているのが特徴です。

きょうの個所ですが、最終的にキリストが来られる時にどのようなことが起こるのか。
25節では「太陽、月、星に前兆が現れる」、また「海と波が荒れどよめく」
26節では「恐ろしさのあまり気を失う」

具体的になかなか想像できませんが、台風・地震・津波、洪水が起こるというレベルではありません。たとえば地球は自転しながら太陽の周りを回っている。少し狂っただけで大変なことになると言われています。巨大ないん石が地球に衝突するとか。経験したこともない恐怖に陥る。

27節、 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これは象徴的な言い方ですが、イエスさまがベツレヘムお生まれになりました。宿屋には部屋がなくて家畜小屋という劣悪なところでした。それを見守ったのは羊飼という社会の片隅にいた人達でした。それがファンタジックな話しになっています。しかし、それがキリストの本当の姿ではありません。今度は神の栄光を帯びて、万軍の主として大軍隊を率いて来られる。それは審判者です。まさに主の主、王の王、キングオブキングです。全世界の誰もが分かる形でキリストの到来を知るというのです。しかも、ある日、突然到来します。まさか、そんなことがあるもんか。たかをくくっているところに突然来ます。

34節 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

マタイ福音書でイエスさまは「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして大洪水が来てしまう。まさか、と言って人々はノアを馬鹿にし、あざわらっていました。またこうもおっしゃいました。「それはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 婚礼の祝宴があるので『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言うのですが、最後は「私はあなたがたを知りません。」と警告をしている。
たかをくくっていたのです。

34節、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」
35節、「その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。」

私たちはこういうところを読むと、恐くなります。不安になります。しかし、繰り返し申しあげます。先週も言いましたが、終末は、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。

ローマ 10:9-13「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
だからクリスチャンにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。信仰者にとって救いの完成の時となる。

皆さん、その準備はできていますか。?つまり自分の内に明確な救いの判断基準を持つことです。だからまだ洗礼を受けていない人はぜひ申し出て下さい。一方では、自分は洗礼も受けて救われた。あとは呑気に生きていけばよいのだ、というものではないのです。原罪のまったき赦し、永遠の命、永遠の救いを受け取っていますが、救いが完成したわけではないのです。

ではどうしたらよいのか、それは36節です。きょうの最重要聖句です。

36節「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

いつも、「いつも油断せずに祈っていなさい」備えあれば憂いなしともいいます。備えとは「油断せずに祈ることです」
これ以外にありません。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)
「人の子の前に立つ」がキーワードです。言い換えると神の御前になるわけです。いつでも神の前に立つことができるように祈る人でありたいと思います。具体的にどう祈ったらよいのか。?

Ⅰテサロニケ3:13「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」「聖くなければ」あるいは」「責められるところがあれば」当然、悔いあらためなければならない。私は祈らなくてもいいのだ、という人は誰ひとりいません。いずれにしろ油断せずに祈り続けることです。ぜひ祈りつつ、クリスマスを迎えたいと思います。

祈ります。


2018年11月25日 「わたしのことばは滅びない」マルコ13:24-31

13:24,だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 13:25,星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 13:26,そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27,そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 13:28,いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 13:29,そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 13:30,まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

きょうは聖霊降臨節の最後の日ですが、聖書日課B年の大みかです。来週から新しい年、アドベントが始まります。きょうの聖書個所は「終末」がテーマになっています。終末という言葉は、「この世の終り」、「民全体にくだされる最後の審判」、「義人の選別」。単なる個人ではなく民全体の最終的な裁きの時という意味です。

24節「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
25節「星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」

天変地異がおき、あらゆるものが壊滅、崩壊する。エレミヤ書、ダニエル書、アモス書などに記されています。いずれも旧約的、また黙示録的な言葉が語られています。それは新約聖書にも引き継がれます。マタイ福音書では、羊飼いが羊と山羊とをより分けるように。裁きが始まる。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)

しかし、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。私たちにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。その象徴的な預言がキリストの再臨です。信仰者にとって救いの完成の時となる。現在、私たちは、「主は必ず来られるという約束の言葉」と、「いつ来るか分からない」という言葉の間にいます。

きょうのポイントの御ことばは
マルコ 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

すべてのものはすたれて滅亡し、消えて亡くなります。しかし、主イエスの言葉は滅びない。滅びないということは、変わらないということです。今は、変化がめまぐるしい時代です。まさに「光陰矢の如し」です。時や変化は想像を超える早さと規模で繰り返されています。50年前、携帯電話など考えられませんでした。電車に乗るとほとんどの人がスマートフォンを操作している。新聞や本を読んでいる人はいません。その電車に乗るのも切符を買う人が少なくなりました。スイカとかパスモで、いわゆる電子決済をする。更にAI(人工知能)という技術が出てきました。また近い将来、産業用ロボットがウェイターや介護士として活躍すると言われています。バスやタクシーといった車も自動で運転する。それだけではない。生活スタイルも大きく変化している。若い人は結婚しない、車を買わない、家を買わない。松田にもありますが、ゴルフ場は閑古鳥が鳴いている。


しかし、変わらないものもあります。私は、茅ヶ崎の駅から歩いて10分くらいの所に「キリスト福音宣教会」という奉仕していた事務所がありました。この間、30年振りくらいで茅ヶ崎に行きました。駅前は見る影もありません。ところが私がカセットテープをよく買った小さな電気屋さんがありました。そこは変わっていませんでした。本当に懐かしい気持になりました。と同時に何かホットしました。何もかもが変わっていく世界の中にあって、変わらないものを求める傾向が人にはあるかもしれません。確かに、社会生活やテクノロジー、或いは政治形態も、どんどん変わっていくでしょう。また、変わらなければならないもの、変えなければならないものも沢山あります。しかし、変わらない拠り所を持っていることは、大切なことです。私達はどこに、その変わらないものを見つけることが出来るでしょうか。

主イエスは、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われました。主イエスは、何もかも変わる世にあって、変わらないのは、神の言葉だと語られました。
神は永遠に変わりません。その言葉も変わりません。それは「神の愛」、救いの約束です。神のみことばは決して反故になることはありません。

先週、Yさんを訪問しました。ぜん息で退院したばかりで鼻から酸素吸入していました。昔、小田原で路上生活をしていて施設を転々として、秦野にいますが、すこぶる元気でした。枕もとに聖書があって「毎日必ず読む」「聖書を読まなければ自分が狂ってしまう」と言っていました。皆さんもご存知だと思いますが、先週は世界的に大きな自動車会社の会長さんが突然逮捕されました。あるいはこの銀行は大丈夫だ、しかし、その銀行がつぶれることさえありえます。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。この世界は過ぎ行きます。しかし、神とその御言葉は永遠なのです。永遠に存在する神の言葉を聴く、信仰をもって聴きとる、信じて聴いて従う、その人は、どうなるでしょうか。その人も又、決して滅びないのです。永遠に生きるのです。「わたしのことばは決して滅びない」この真理を心に刻んでください。

祈ります。