牧師の日曜メッセージ

6月23日 「立派な信仰」ルカ7:1-10
7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
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カペルナウムは、ガリラヤ湖畔の町です。イエスさまの第二の故郷、ペテロ、アンデレ、マタもここで弟子になっています。当時はローマの守備隊の駐屯地にもなっていました。
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7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。「百人隊長」が登場します。古代ローマ軍の指揮官のことで歩兵100人を指揮監督していた。
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ところが「重んじられているひとりのしもべ」とあります。
隊長にとってなくてはならない「しもべ」であった。そのしもべが病気で死にかけていた。
この病気が何であったのか、わかりません。古代社会で、今のように医療が進んでいません。
不憫でならなかったのでしょう。そこで何とかしたい。
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7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
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イエスさまのうわさを聞いていたに違いありません。百人隊長は「ユダヤ人の長老たち」を送って「しもべを助けに来てくださるよう」懇願したわけです。
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7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
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この百人隊長の人柄とあつい信仰が伝わってきます。「ユダヤ人の長老たち」この分脈から、百人隊長はおそらく異邦人です。
もし異邦人ならば改宗していないかった可能性があります。つまり洗礼と割礼を受けていない人です。異邦人が改宗し、ユダヤ教徒になるということは簡単なことではない。その百人隊長は会堂を建てた。異邦人だけれど、ユダヤ人を愛し、私財をなげうって会堂を建ててくれた。百人隊長は信仰深い人だった。おそらく死にかけているしもべも礼拝に加わっていたと思います。
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7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
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ここでも「資格は、私にはありません。」と百人隊長のことばを伝えています。当時、異邦人はユダヤ人から見ると忌み嫌われていました。
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7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
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「権威」ということばがキーワードです。もちろん百人隊長の権威と神の権威は本質的に違いますが、神のご意志であるならばいやしが可能になる。
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7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」★7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
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それほど難しい話しではありません。しかし、良く読むと、少し疑問に思うところもあります。4節と6節に資格という言葉があります。たとえば、「そうしていただく資格のある人」と言っています。このあたりは注意して読まなければなりません。
厳密には資格のある人は誰もいないと思います。神に癒やしていただける資格のある人。10節で、不思議なことに「しもべ」はいやされていた。「あなたの部下は癒されよ」とおっしゃったわけではない。他の福音書では必ず「あなたの病気はいやされました。」と声をかけます。イエスさまはどうやって治したのでしょう。

そして、百人隊長とイエスさまは最後まで一度も会わなかった。また会う必要もなかった。普通は「ありがとうございました」と御礼を言ってもよいと思います。しかし、この個所は難しく読む必要はないと思います。

結果的には奇跡的に癒やされるわけですが、この百人隊長は謙虚でした。控え目で、つつましいく、へりくだっていた。このことははっきりしています。すぐにキレる。腹を立てるような人ではなかった。神の前に謙虚である。百人隊長はイエスさまを信頼した。具体的には、神のことばの力、その全能性を信じた。ここに奇跡が起こった。

きょうのみことばは、
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
「おことばをいただかせてください。」ここがポイントです。「おことば」とはイエスさまの言葉、聖書のことばです。
そのおことばに権威がある、そのおことばを信頼していた。
謙虚でかつ神のことばを信頼した。だから、イエスさまは
9節で「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」と大変なほめ言葉をいただいた。

神は全能です。それは「ことば」に力あるからです。話は変わりますが、今、病院のお医者さんが不足していると言われています。
過疎地域にドクターが診察に行けなくなる。「遠隔治療」「オンライン治療」とも言われています。それでも完全に治るかどうか、わかりません。イエスさまも同じようなことを行った。このときインターネットは使わなかった。完全に癒やされた。つまり神はどんなことでもできる。神は全能です。百人隊長はイエスさまを信頼した。そして神のことばの力、その全能性を信じた。あなたがどういう人であっても大切なことは神のことばに信頼すること。百人隊長はイエスさまと会ったこともないし、会う必要もなかった。しかし、信頼関係があった。それは神のことばを信頼したということです。

今、言葉が氾濫しています。テレビ、ラジオ、インターネットで言葉が溢れています。ことばの大安売りです。1分とか2分で現れては消えていく。何が正しくて、何が間違っているのか、わからない。言葉を信頼してよいのかわからない。言葉が信じられない時代です。
しかし、聖書のことばは裏切らない。教会は、2000年の歴史が証ししています。もし聖書のことばが確かでなければ、とっくにつぶれています。もう一度申しあげます。聖書のことばは裏切らない。それは信頼したときに分かります。

祈ります。

6月16日の説教 「真理の霊」ヨハネ16:12-15 
ヨハネ 16:12,わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。16:13,しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。16:14,御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。16:15,父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
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きょうの日曜日、名前がついています。「三位一体の主日」と言います。
「三位一体」ということば、聖書にありません。父 子 霊 の三つが「一体」である。聖書を良く読むと、そこに矛盾がない。
「三位一体」は信仰告白の一つで、これを認めないと正統なキリスト教会にはなりません。それはなかなか説明しにくい。大事なことは聖書を良く読むことです。きょうの個所はヨハネ13章から始まっています。
イエスさまが最後の晩餐の席でご自分はこの世を去るが、違う形、つまり御霊送る約束です。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
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この場面で弟子達は、イエスさまが十字架で死を遂げ、悲しみのあまり耐えられないような状況だった。
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16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
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今はその理由が分からないけれど「真理の御霊」が来ると全てが明らかにされるというのです。「真理の御霊」とおっしゃっています。真理とはイエスさまがお語りになったこと、行ったことです。具体的には十字架と死からの復活、永遠の救いの計画です。
この真理の理解を助けて下さるのが御霊です。
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1コリント 12:3,聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
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16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
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御霊の最も大きな働きはキリストの栄光を現すことです。「主の聖名を賛美します」と素直に言えるとき、そこに御霊の働きがある。
そのことは私たち信仰者もはっきりとした形で知ることができます。15節が神の「三位一体」を裏付けるひとつの聖句になっています。----------------------------------------
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
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父なる神は私たちを愛して、恵みとして主イエスと御霊、聖霊を送ってくださった。きょうは御霊の働きについて考えてみたいと具体的に考えてみたいと思います。きょうのポイントの御ことばは、

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。

すべての真理に導き入れられる、というのはどういうことか。
真理は神から主イエスをとおして私たちに届きます。これ以外の方法で神を知ること、すなわち真理を受け取ることはできません。
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ヨハネ 14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
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13節でいう真理とは何か、少し踏みこんで言いますと、真理とはイエスさまご自身です。イエスさまそのものです。イエスさまを知るときに、はじめて神のご人格、ご性質、不変性、全能性、神の愛、慈しみとあわれみ、永遠性、無限性が理解できます。まだまだたくさんあります。その神の真理を全部ではないにしろ理解できる。「神の真理が理解できる」これが御霊の働きです。
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失礼な言い方かも知れませんが、神を信じない、信仰を持たない人との決定的な違いがあります。「イエスさまは二千前に十字架にかかりましたが、今も生きています。」「見えないけれど、ここにいます。」「その声を聞くことができます」と言ったら、聞いている人はどう思うでしょう。自問自答してください。今も生きていると思いますか。イエスさまが二千年前にお生まれになり、福音を語り、病気を癒やし、悪霊を追いだされました。人々を愛し、その罪のために十字架にかかり、復活した、同じことが今も起こりますよ。
同じことが今も起こると思いますか。イエスさまは、2000年前に地上の生涯を生き、その言葉と生き方をもって神を現してくださいました。それは一回限りです。それは今も私たちは体験できる。経験できる。これが聖霊の働きです。
イエスさまは、

マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ 28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

このことばを現在形で読むことができるのです。御霊の働きがないならば、哲学や思想、人生観として受け取ることができても体験として受け取ることはできません。「罪」も「赦し」もわかりません。「救い」も分かりません。私も神を知る前は、いいことがあれば運が良かった。あるいは自分が頑張ったんだからとか。それ以上ではありません。まして祈ることはありません。現在、イエスさまを見ることも触れることも、その声を聞くことができませんが、イエスさまのことばと結び付くとき、イエスさまの行ったわざを思い出すとき、今も生きておられるがわかります。私たちはそのことを経験、あるいは体験を通して今現在、イエスさまの声を聞きます。信仰を持って神を信じて歩んでゆくとき、めぐみとして体験するわけです。聖霊とは、素朴に言えば「神の見えない働き」、「復活したイエスさまの見えない働き」です。

しかし、気をつけなければならなのは、ヨハネ福音書は、単なる「働き」「パワー」ではなく、いつも弟子たちとともにいてくださる「方」、パラクレイトス、もうひとりの助け主として記しています。パラ(傍らに)とクレートス(呼ばれた者)という、聖霊のことを人格を持つもののように記しています。「あなたがたをすべての真理に導き入れます。」。導き入れる」は「道案内する」という意味の言葉が使われています。だから祈ることができる。祈りは、いつもイエスさまのお名前を通して父なる神にささげられます。
私たちは、このダイナミックな神との関わりを生きるように招かれているのです。そのことを感謝したいと思います。

聖 書  使徒2:1-11 
説 教 寄り添ってくださる神  

説教者:影山範文師
鳥取県出身、東京教育大学附属盲学校から日本クリスチャンカレッジ進学。太平洋放送協会勤務、盲人伝道に携わる。オアシス福音センターを開設テープ伝道を行なう傍ら、1992年から約9年間、あかし、賛美、情報等を収めた視覚障害者向け有線放送番組「フレンドシップアイ」の制作を担当。1992年、愛のキリスト教会を設立。2004年、日本同盟基督教団に加盟、愛のキリスト教会主任教師となる。2009年5月から、いのちのことば社・福音点字情報センター協力委員長。2018年、愛のキリスト教会主任教師を辞任して、日本同盟基督教団の支援教師となり、現在に至る。各教会やバイブルキャンプ等で、メッセージの奉仕をしている。家族構成は、妻(全盲)と一男一女。

使徒 2:1,五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2,すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3,また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4,すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。5,さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6,この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7,彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8,それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。9,私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10,フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、11,ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

6月2日   復活後第7主日の説教 「わたしはすぐに来る」黙示録22:12-17,20 
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

「見よ。わたしはすぐに来る。」キリストの再臨については、これまでも何度か予告されてきました。最後の22章に入るとはっきりと、しかも繰り返し強調されています。「見よ、わたしはすぐに来る」(7節、12節)。この約束への応答もまた、力強く繰り返される。「来てください」(17節)。ヨハネ黙示録のクライマックスです。
「来てください」、「見よ、わたしはすぐに来る」。「すぐに来る」というのは少し違和感を覚えます。普通なら「行く」です。ところが、ギリシア語も、ヘブル語も、「行く」も「来る」も同じことばなのです。このやりとり、私たちと神との関係を良く表しています。
ここは難しく考える必要はありません。皆さんが、小さな子どもだと考えてください。どこかで暗い道で迷って泣きそうになって、「お父さん、お母さん、早く来て」と叫ぶ。それを聞いた親は、必ず「今、行からね」というはずです。
聖書の教える救いとは、いつも切迫した状態です。そのときに私たちが頑張って何とかするわけではないのです。多くの宗教は祈りや修行によって、あるいは戒律を守ることによって、より高い境地に「達する」ことを目指す。しかし、聖書の救いの条件は人間の側にはありません。もちろん、人間の努力を否定するわけではありませんが、最終的な救いは「主イエスが来て下さる」あなたがた一人一人の所へ来て下さる。この信仰が、ヨハネ黙示録全体を、そして聖書66巻を締めくくっています。20節「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
<きょうは少し丁寧にみことばを読みます。>
12節、「わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」「報い」とは新約にはなじまないことばです。しかし、こうも考えられます。福音宣教は、すぐに成果が出るわけではありません。時間を無駄にしているように思うことがあります。そのために祈り、ささげた献金、さまざまな労苦、それが何であれ、神はそれを忘れてはおられないと思います。それに報いて下さる。
御ことばを引用します。コロサイ3:23-24 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。
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13節、わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
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アルファはギリシャ語アルファベットの最初の文字で、オメガは最後の文字です。すべてに始まりと終りがあります。始まりのない終わりはありません。すべてを神が支配しています。
これはイザヤ書からの引用だと思います。イザヤ書44:6のことば、
「イスラエルの王である主イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」
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14節、自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
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「着物を洗って」というのは黙示録 7:14の引用で「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」とあります。キリストの十字架の血潮で洗われた衣を着た人という意味です。
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15節、犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
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聖書ではいろいろな動物が出てきます。羊、ロバ、鳩、鶏、牛とか、なぜか「犬」はよく描かれていない。「犬好きの人」にとっては不満かも知れません。犬はともかくとして、「魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者」というのは悪霊的な感じがします。
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16節、「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
17節、御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
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ここで「御使い」が出てきます。御使いは伝言などを送り届けるメッセンジャーです。神のわざの実行をサポートする。誤解を恐れず言いますと、私たちの日常でも経験すると私は考えています。困っているときに、「御使い」ではないかと思えるような人と出会って助けられることがあります。きっと皆さんも何度もあると思います。ここでも御使いが私たちのために遣わされ証しをしてくれる。わたしとはまことのメシア、キリスト。ご自分のことを形容します。「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」やがて夜が明け、義の太陽が昇る。こうして私たち励まします。17節の「花嫁」は教会を表します。私たちは聖霊と共に「来てください。」と言います。
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それに対し、イエスさまは「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
ヨハネ 4:14を引用します。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
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ここから20節に飛びます。
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これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
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この言葉が聖書全巻の結びの言葉になっています。「しかり」は神の約束の真実です。千年は一日のようでもあるわけですから、主イエスは明日、来られるかも知れません。「アーメン。主イエスよ、来てください。」キリストの再臨によってもたらされるこの世の終わり、私たちの救いの究極的な完成です。
教会が世界各地にできて2千年続いています。それは見えるものに心を奪われなかったからです。その根本にはキリストの再臨信仰があったからです。このことは現代に生きる私たちにとっても真理です。
あまりぴんとこないという人がいるかも知れません。いのちが尽きるとき、召されるとき、同時に再臨の時にもなります。

13節、わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

始まりのない終わりはありません。私たちもこうして出会いという始まりがありました。しかし、必ず別れという終わりがあります。人であれ、ものであれ、すべてがそうです。いのち尽きるとき、あなたの最後の叫びは何なのか。

20節「アーメン、主イエスよ、来てください。」ではないでしょうか。

祈ります。

5月26日 復活後第6主日 「平安を与えます」ヨハネ14:23-29 

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。29 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。

最後の晩餐の中でのイエスさまの言葉です。
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

これは大原則、神の言葉である聖書を抜きにした信仰生活はあり得ない。イエスさまを愛する人は、イエスさまの言葉、つまり聖書のことばを守るというのです。
「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
「そうすれば」とおっしゃっています。神はイエスさまの言葉を守る人を愛し、その人と共に住む。つまり神が共にいてくださる。インマヌエルが実現します。同時に大きな祝福が伴います。神の様々な賜物をいただき用いられながら成長します。

引用ヨハネ 1:12,しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

神の子としての特権だけではありません。罪のまったき許し、永遠の命、神の子としての祝福を無条件で受け取ることができます。更に聖書は自分の思いを超えて物事の様々な判断基準になります。

14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

逆もまた然りで「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」聖書は残念ながら受け入れない人がいる、ということも教えています。

そして「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」イエスさまも勝手に話しているわけではない。それは「父のことば」とおっしゃています。

14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ここで聖霊が登場します。きょうは復活後第六主日、ペンテコステが5月9日、聖霊の登場をチラッと予告しています。
「思い起こさせてくださいます」が隠れたキーワードになっています。
旧約の民が奴隷であったエジプトから解放され救いだされたことを思い起こすように新約では主イエスが聖餐で「わたしを覚えてこれを行ないなさい」と命じられています。更に私たちは「思い起こす」のは、聖餐式の時だけではありません。毎日のことです。主イエスの十字架によって、私たちは罪を赦され、神に受け入れられている者であることをいつも「思い起こす」必要があります。そしていつも主に対しての感謝を忘れないことが「思い起こし」なのです。
ところが福音書の弟子達も思い起こしたことが記されています。

引用ヨハネ 2:22,それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

イエスさまの言葉を思い起こす。これは私たちクリスチャン全体にも言えることだと思います。教会に来て洗礼を受けて聖書を読み続けている。私たちは今日もこのように日曜日教会に来て説教を聞く、しかし、新しい教えは何一つありません。
それを思い起こすだけです。それがとてつもなく大切なことになります。私たちも日曜日ごとに、神の言葉を思い起こしているだけなのです。
「ああ、そういえば、そうだった。」この繰りかえしです。そうして再び修正されます。リセットされます。

ところで時計が本来の時間を表示しないとき、時計は狂っていると言います。昔の時計は良く狂いました。ほっておくと相当ずれてしまいます。知らないうちに、独り善がり、自分本位になっていきます。自分では正常だと思っている。やがて自分がどこにいるのか、自分は誰か、何のために生きているのか。わからなくなります。マップを持たないで山道を歩くようなもの。羅針盤を持たないで航海をするような状態。自分ですら誰か分からなくなる。その分からなくなることもわからない。

大切なことは、神のことばを思い起こすことです。しかし、自分は思いおこせるか心配する必要はまったくありません。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

聖霊が助けてくれます。そして

14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

「平安」を残します。ここがきょうのハイライトです。平安はエイレーネ、ギリシャ語で平和。ヘブル語ではシャローム、今でもユダヤ人はあいさつ用語として使われています。
深い充足感、達成感、満ち足りた思い。 わたしは体験しているのですが、なかなかうまく説明できません。

その逆は言えます。すくなくとも自分の欠点を克服することで得られる平安ではありません。
ほかの人に認めてもらうことで得られる平安ではありません。お金や物や能力で得られる平安ではありません。あなたは、さすが、すごいね。真似できないよと言われるときの平安ではありません。好きな人、親しい友人、良い家族、そこから来る平安ではありません。何でもかなえられる打ち出の小づちであっても実現できない平安です。

27節、良く読んでください。「わたし」と4回おっしゃています。大切なことは、「わたしの平安」です。キリストの平安です。どんなに苦しい試練に遭おうと父なる神の力と愛が支えてくれるという確信です。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

どうしたら与えられるのでしょうか。
23節に書かれています。

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

イエスさまを愛し、そのことばを守るときに与えられる平安です。ぜひそのようなあゆみをしてください。

5月19日の説教 「新しい戒め」ヨハネ13:31-35
31,ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。32,神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。33,子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。34,あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35,もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
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最後の晩餐のあとユダの裏切りが具体的に起こります。13章21節、・・・・・・・・・・わたしを裏切ります。30節では「ユダは、パン切れを受け取るとすぐに、外に出て行った。すでに夜であった」。わざわざ「夜であった」と記しています。ヨハネ福音書は「光」を強調します。「わたしは、世の光です。」それに対して、夜は闇を表します。まさに闇夜の中にユダは消えて行き、二度と帰ることはありませんでした。31節、また同じような説明をくりかえします。
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13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
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「ユダが出て行った」、イエスさまも止めることはしなかった。このとき裏切りは決定的になり、十字架での処刑は確定しました。
このとき「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」
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13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
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栄光という言葉、31節、32節、合計4回使われています。栄光とは「最も高い誉れ、名誉」です。キリストは再臨の時、栄光を帯びて来られると記されていますが、ここでは十字架と復活による栄光を当てはめています。「人の子の栄光」とはイエスさまご自身が自ら十字架による死を選ばれた。神への従順による栄光です。父なる神はそのような従順なイエスを放っておかなかった。神の栄光は、そのイエスさまを復活させる栄光です。「しかも、ただちにお与えになります。」栄光を受けるにふさわしいことを強調しています。こうしてキリストと父なる神が相互に栄光を受けるというのです。父と子は栄光によって一つになります。ここでの隠れたポイントは、父の愛と子の従順です。従順も愛です。父と子は愛によって結び付いている。聖書の最も大切なことばは、愛です。
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1コリント 13:13,こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
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イエスさまは33節で「子ども達よ。」と未熟な弟子達に呼びかけます。
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13:33 わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
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33節は、抽象的で少しややっこしいイエスさまの説明ですが、要するにご自分はもうしばらくで天にあげられる、弟子達はそこには来ることができない、ということです。こうして地上に残る弟子達に戒めを与えます。ここがきょうの大きなポイントになります。
34節以下です。残される弟子達に遺言のように語ります。
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13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
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この聖句、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、どの福音書も最も重要な聖句としてあげています。「お互いに愛しあいなさい」、この世の一般常識です。しかし、ここで「新しい戒め」と言っています。愛と言っても様々な愛があります。その動機も様々です。
あの人は家族だから好きだ。仲間だからだから好きだ、お世話になったから好きだ。もちろんそのことも大事です。
しかし、こういう聖句があります。
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ルカ 6:32,自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。33,自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。
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ここで「新しい戒め」と言っています。私たちが知っておかなければならないことは、「わたしがあなたがたを愛したように」ここが重要です。キリストがあなたのために命を捨てて下さったというこの一点です。
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ヨハネ 15:13,人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
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愛することができないとき、十字架の愛を思い出して下さい。もう一度大事な個所ですから、読んでみます。
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13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
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考えて下さい。相手が誰であろうと、百パーセント愛せる人はいません。できるのはイエスさまだけです。相手があるわけですから、非常に難しいケースもあります。それで落ちこむ必要はありません。まず祈る必要があります。あの人が「好き」とは単なる感情です。英語でいう「LIKE」です。「アイ・ライク・ユー」「愛する」とは決断です。だから決断することです。その時「十字架の赦しがなくては、決して救われることのない自分」、が示されると思います。教会とは、敵であったのに、場合によっては今もなお敵であるのに、愛され、そして赦された者たちの、集まりです。だから、自分はダメだなどと考える必要はありません。たとい裏切られても無視されてもイエスさまが従順であったように実戦する。そして結果は神に委ねる。そのとき神はかならず助けて下さいます。
34節、もう一度読んで終りにします。
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13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
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祈ります。

5月12日の説教「わたしの声を聞き分けます」ヨハネ10:22-30

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。30 わたしと父とは一つです。」


11節「エルサレムで宮きよめの祭りがあった」、紀元前170年、異教徒の侵略で祭壇を汚されることがあった。そこでユダヤ人たちは汚れた神殿をきよめ、奉献したようです。この当時、神殿を中心として宗教が成りたっていた。ヨハネ2章では、イエスさまは、宮きよめ事件を起こします。当然、ユダヤの関係者は激怒します。そのイエスさまは23節で「宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」。
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10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
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ユダヤ人たちはイライラしているのが読みとれます。とにかくイエスさまがメシアであるか、はっきりさせたい。
「あなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」とぶしつけな質問です。イエスさまを陥れるために問い掛けになっています。「わたしがメシアだ」と答えれば、神への冒涜罪になる。「メシアではない」と言えば、人々をまどわせた罪で訴えることができる。イエスさまはそれには直接応えませんでした。
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10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
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「わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」わざというのは見える行い、結果です。信じようとしないならば、いくら言ってみたところでも「馬の耳に念仏」です。
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10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
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信じないのは、「わたしの羊に属していない」からだと断定します。イエスさまは、私たちとイエスさまとの関係を、羊と羊飼に例えました。きょうは招きの言葉で詩篇23篇が読まれました。
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23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
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人間は動物にたとえるなら羊です。ライオンでも虎でも、馬でもありません。他の動物に食べられてしまうこともあるのです。鋭い牙や爪があるわけではありません。他の肉食の動物に襲われそうになるなら、逃げるだけ、それでも追いつかれてしまう。また病気になりやすい。そしてよく迷います。だから羊飼の保護が必要になる。
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10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
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羊飼は自分の命をかけてでも羊を守る。そして最終的に羊飼は羊をどこに導くのか。「永遠のいのち」です。28節「永遠のいのちを与えます。」ヨハネ福音書の特徴のひとつとしてとしてキリストを信じるとき「永遠のいのち」が保証される。このフレーズがくりかえされます。
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ヨハネ 3:16,神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
また
ヨハネ 6:58,これは、天から下ってきたパンです。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
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このように「永遠のいのち」が保証されます。そしてきずなが強調されています。
27節と28節では「わたし」、「彼ら(わたしの羊)」、「わたし」、「彼ら」、これが繰り返される。
お互いに共存関係にある。きょうのポイントは

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10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
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「羊」である私たちは、主の御声を聞き分ける耳が与えられています。それを十分活用する必要があります。
教会とは、キリストのからだである教会は、良い牧者である「イエスさまの声に聞き従う羊の群」です。だから聖書を読むわけです。聖書の御言葉を通して御心を示し、悟らせてくださるのです。とは言え、様々な声が聞こえてきます。そのとき大切なことは「イエスさまの声を聞きわける」ことです。
私たちには弱さがあって「み言葉」を聞くより先に、自分達の願望を達成してくれる人の声を聞いてしまう傾向があると思います。健康になりたいとか、幸せになりたいとか、あなたの願いが聞かれますよ。聞きまちがえて自分の羊飼でないところへ行ってしまうことがあります。自分の単なる願いなのか、神の御心なのか吟味する必要があります。だからどうしても「聞きわける」力が必要になります。
イエスさまの声は大声ではありません。むしろ囁くような声です。だから自分から進んで祈りつつイエスさまの声を聞こうとしなければなりません。現代のような忙しくて雑音の多い毎日の生活の中では、聞き取りにくいと思います。だからイエスさまの声になじむ必要があります。それにはイエスさまとふだんから繋がっていないとなじめません。そのためにも聖書をふだんから読むことが求められます。そうして本物の羊飼いの声を聞かなければなりません。
詩篇23の最後
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23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
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これは羊が羊飼いの声を聞きわけたときの祝福です。ぜひイエスさまの御声を聞き分けてください。

祈ります。


5月5日 復活後第3主日「小羊に賛美」黙示録5:6-14   

5:6 さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
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きょうは黙示録ですが、皆さんもご存知ですが、難解書物です。旧新約聖書を良く読んでいないと読みとけません。新約は当然ですが、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルをよく読む必要があります。しかし、聖書をきちんと読んでいると分かりやすい部分もあります。当時、教会に対するローマ帝国の迫害が激しさを増してくる。更に皇帝礼拝が強制的に行われような中で、手紙形式で書かれました。主の再臨の近いことを告げ、希望と慰めを与える書物になっています。きょうは5章11節からの「天の上での礼拝」と言われる個所です。私たちは地上にいますが、国籍は天にあります。そこでの礼拝の様子が描かれます。
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5:6 さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
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ユダヤ黙示文学の芸術表現に従って絵画的に描かれています。四つの生きものは具体的に何か分かりませんが、神をたたえている。そして「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。」とあります。「小羊」が登場します。ほふられたと見える、つまりからだが切り裂かれているようみ見える。しかし、「小羊が立っている」と記されています。小羊は、死んでいますが、なぜか立っている。
この小羊こそ十字架の死から復活したキリストです。

イザヤ53:7は「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言っています。
ペテロは「傷もなく汚れもない小羊のようなキリスト」と記しています。

これは明らかにイエス・キリストです。更に「七つの角と七つの目があった。」、七は完全数、「角」は力を表します。「七つの目」は神の御霊です。「その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」神の全能を表します。これはおそらく聖霊です。
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5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
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「御座に座る方」とは父なる神ですが、小羊は巻物を受け取る。
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5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
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これは礼拝の様子です。立琴は賛美の楽器です。「香」は祈りです。賛美と祈りに満ちています。
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5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
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この受け取った巻物ですが、5章1節では「巻物は七つの封印で閉じられていました。」2節では「巻物を開いて封印を解くのには者はだれか」4節では「巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。」これを書いたヨハネのことですが、ところが、小羊がそれを受け取ります。この巻物とは何か書かれているのか、神の救いのご計画です。
小羊はなぜ封印を解くことができたのか、それは「力」です。小羊は力があります。
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5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」----------------------------------------
「彼らは、新しい歌を歌って言った。」「新しい」は時間ではありません。「カイノス」という言葉が使われています。新製品は使ったら中古です。車を買っても一度乗れば中古車です。そうではなく今までになかった新しさ、救われて新しくされた。讃美歌はすべて「新しい歌」、昔の讃美歌でも「新しい歌」になります。詩篇 33:3「新しい歌を主に向かって歌え。」と言っています。黙示録 21:1「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。それだけではありません。聖書は新しさに満ちています。コロサイ 3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」ガラテヤ 6:15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」1コリント 11:25「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」Ⅰヨハネ 2:8「しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。」ルカ 5:38「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」聖書は「新しさ」に満ちています。
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5:9 「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、5:10 「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
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すごい光景です。小羊の血によってあがなわれた人々の宇宙規模の大オーケストラ、大合唱の賛美です。
あらゆる被造物が賛美する。それが無限に広がっていく。東でも、西でも、南でも、北でも地の果てにまで広がる賛美です。
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5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」----------------------------------------
強力な力、理想は描いても実現できない方ではない。力はキリストのものです。
無限の富、問題を解決する知恵、悪の力を打ちくだく勢い、誉れは誰もが認めざるを得ない誉れ、キリストは栄光に満ちておられ、賛美を受けるにふさわしい方です。
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5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
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これが天上の礼拝です。私たちの教会はちいさな教会で祈りもちいさいと思う必要はありません。キリストは復活しました。天上では昼も夜も神を賛美している。私たちには天の軍勢が、天の住民が、証人たちが、雲のように取り巻いているのです。決して孤独ではありません。これからも賛美する教会でありたいと思います。

祈ります。

4月28日の説教 見ずに信じるものは幸いです」ヨハネ20:19-31

 

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
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きょうは「復活後第2主日」で、聖書日課A年、B年、C年にかかわらずはこのヨハネ20:9-19が選ばれています。つまり毎年、この時期読まれる重要な個所になっています。この個所はヨハネ福音書のペンテコステと呼ばれています。イエスさまの処刑、そして恐れと失望の中で、イエスさまは弟子達に現れ、弟子達を使わすと同時に聖霊をお与えになる個所です。
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19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。」と記されています。
日曜日の朝、マリア達がイエスさまの復活を弟子達に伝えます。にもかかわらず、弟子達はまるで、それまでの出来事を知らなかったような雰囲気です。私たちの弱さでもありますが、聞かされていたから知っているか、というとそうとは限りません。信仰がないと生活の中でキリストを意識できない。そうすると不安になります。ここでは弟子達は「ユダヤ人を恐れて」と記されています。当時、キリスト教はユダヤ教から異端とされていました。自分たちもイエスさまと同じように逮捕され、同じように十字架につけられるかも知れない。そう考えていたかも知れません。

あるいは、こうも考えられます。自分達はイエスさまを裏切り、見捨てて、見殺しにし、逃げてしまった。そのイエスさまが生き返ったとき、見殺しにした罪が裁かれるかもしれないと。つまりユダヤ人から迫害を受ける恐れもあったし、イエスさまを見殺しにした罪を問われる恐さもあったかもしれません。弟子達の心の内面はひとことでは言えない不安、寂しさ、恐れ、悲しみがあった。話しは飛躍するかも知れませんが、現代の私たちにも言えます。私たちもさまざまなトラウマを負って生きている。表向きは何でもないのですが、内面は不安、怒り、ねたみとか心の傷がある。そのため自尊感情が低い、ちょっとしたことでイライラする。「悶々とした怒り」がある。そうなると生きていてもしんどい。自分が解放されていない。そういう人は少なくありません。
このときの弟子達がそうだった。
「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」というのは「心の戸が閉まっていた。」そこにイエスさまが来られ『平安があなたがたにあるように。』とおっしゃいました。平安というのはシャローム、「平和」を意味する言葉です。
それは「神さまが共にいてくださるよ」と宣言しているのです。裁く神ではなく、罪を赦す神として来て下さった。アウグスティヌスという古代の神学者はこう言っています。「神に造られた私たちは神を見出さなければ決して平安が与えられない。」と言っています。私たちはその様に造られているのです。

 

20:20 「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。」
そこには十字架での刺し傷があった。私たちの罪を贖い、復活されたことを強調しています。
そして「弟子たちは、主を見て喜んだ。」このとき自分を閉じ込めていた心の扉が開き、新しい命に生かされて始めるわけです。ここで弟子達は救われただけではなく、この世に派遣されていきます。
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20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
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息を吹きかけるというのは、創世記の天地創造で神が人を造られるときに与えられたいのちの息です。
こうして救い、派遣、聖霊が与えられました。
ところが、
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20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
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ヨハネ14:5にもトマスが出てきます。彼は真理を追究するタイプだった。
「トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』」これは、主イエスが「私はあなたがたのために場所を備える。そして場所を備えたら迎えに来る」とおっしゃったときのトマスの言葉です。そのときイエスさまは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」トマスが聞かなければこの御ことばはなかった。
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20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
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そんなトマスのために、次の日曜日、イエスさまが再び現れて下さいました。これはイエスさまの愛です。
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20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
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このとき、20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」と自ら信仰を告白します。
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20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
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「見ずに信じる者は幸いです。」これがきょうのポイントの言葉です。
あれから2千年、誰もイエスさまを見た人はいません。さわった人もいません。「見ずに信じる者は幸いです。」とイエスさまはおっしゃっています。

皆さん、ぜひ「信じない者にならないで、信じる者になってください。」
そこに神に祝福される人生があります。


4月21日 復活日 「イエスの復活」ルカ24:1-11
ルカ 24:1,週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。24:2,見ると、石が墓からわきにころがしてあった。24:3,はいって見ると、主イエスのからだはなかった。24:4,そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。24:5,恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。24:6,ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7,人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」24:8,女たちはイエスのみことばを思い出した。24:9,そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。24:10,この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。24:11,ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
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イースターおめでとうございます。主イエスは死人の中から復活されました。
世界の歴史が始まって以来、これ以上の良きニュースは他にありません。罪の赦し、神の子とされる恵み、永遠の命への約束、互いに愛しあうことの素晴らしさ。そのことが現実になりました。そして今神は私たちと共にいて下さいます。そのことを心から神さまに感謝します。
きょうの個所、主イエスの復活の様子が、ルカ福音書らしく、生き生きと描かれています。

24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

「週の初めの日の明け方」とは、今でいう日曜日の朝早くという意味です。イエスさまが葬られたのは金曜の夕方、安息日が迫っていましたのでご遺体を急いで墓に納めた。そのため香料を施すことができなかった。そして金曜日の夜から翌日の夕方にかけての安息日が続き、翌日、日曜日の朝を迎えました。ガリラヤ時代から着いてきた女性達は準備していた香料をたずさえて墓に向かいました。最後のお別れという意味もあったでしょう。当時の墓は岩の壁をくり抜いて作られていましたが、着いてみると入口の大きな石がすでにころがしてありました。
3節から読みます。

24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

ここで二人の御使いが登場します。以前にも申しあげましたが、御使い、あるいは天使が登場する時は決まって重大な場面でこの個所を強調しようという意味があります。御使いは6節で「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言っています。
ここがきょうの最初のポイントです。イエスさまの言葉を思い出すことの大切さです。私たちはこうして聖書を読む。いいことがいろいろ書かれています。ところが皆さんも私もそうです。聖書のことばを忘れます。これは個人差があると思います。もともと人間の記憶力は大したことではありません。しかし、忘れても心配要りません。ここぞという大事なとき、神さまは私たちひとりひとりに、そのときでなければならない聖書のことばを思い起こさせてくださいます。

ルカ 12:12「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」という聖句があります。思い出すことも神が助けて下さいます。特にイエスさまは大切なことは何度もおっしゃっています。つまりここでは受難の予告です。

24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

ここでは「と言われたでしょう。」と思い出すように促しています。そういえば、そうだった。イエスさまはそのことを何度もおっしゃってたよね。私も物忘れが多くなりました。そして「そういえば、そうだった。」とあとで思う。ところが完全に忘れてしまうことがあります。それはどうでもいいことです。大切なことは聖書のことばにいつも触れていることです。こうして教会に来て聖書のことばに触れていると思い出させて下さる。「そういえば、そうだった。」それはイエスさまに触れることです。

ヨハネ 1:1,「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

「ことば」は、人となったロゴス、それはキリストです。こうして教会に来て聖書のことばに触れる。それはキリストに触れることです。

そうして
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

すっかり忘れていたイエスさまの言葉を思い出した。このときダイナリズム、内に秘めたエネルギーが生まれます。「力」とはギリシャ語「ドゥナミス」から派生した言葉「ダイナマイト」の語源になっています。「全て吹き飛ばす」のが福音の力、聖霊の力。死から命へ、呪いから解放へ、罪から赦しへ導く力になります。よく、偉いけれども死んでしまった人の「思い出話し」を何度もする人がいます。もちろん全部が良くないとは言いませんが、そこには希望はありません。それは「生きている人を死人の中で探すようなことだ」というのです。ところが、すっかり忘れていたイエスさまの言葉を思い出した。このとき180度方向転換します。

24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。

9節では「報告した」。10節では「話した」とあります。このときはまだ半信半疑だったと思います。しかし、11人の弟子達に知らせました。ここが大きなポイントです。「報告した」、「話した」とは知らせたということです。今までお墓の中で死人を探していた。それが知らせる人になった。つまり「知らせる教会」が誕生したのです。何を知らせるのでしょうか。キリストは私たちの罪を赦し、まことのいのちを与えるために、キリストは復活されました。これが福音です。きょうのコリントへの手紙ではパウロは「最も大切なこと」と言っています。復活を信じられなかった弟子達が信じる者へ変えられた。それは、イエスさまが語った言葉に耳を傾けたとき、知らせる者に変えられたことです。それを最初に知らせたのは、ガリラヤから従ってきた女性達です。そうして復活を知らせる教会が誕生していく。松田教会も同じです。神の愛を知らせる教会です。だから十字架が四つあります。これが私たちの教会に与えられた宣教の使命です。

祈ります。

4月14日の説教 「イエス・キリストは主」ピリピ2:5-11
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
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読んですぐに分かると思います。
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2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
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このあとの文章です。6節から11節、キリストの模範について、美しく文章が整えられ語られています。ここはパウロが書いたのではなく、おそらく当時パレスチナ地方の初代教会で用いられていた「讃美歌」があってそれを引用したのではないかと言われています。「キリストの十字架と復活」の本質が正しく説明されています。二つに区分することができます。一つは、最初の部分、2:6-8節、キリストご自身がどのような心構えで、十字架で死なれたのかが、説明されています。
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2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
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「神ご自身が、神のありかたを捨てた」というのです。「神のありかた」とは性質や本質というよりも変貌山で主イエスが元々持って居られた栄光の姿です。その栄光にしがみつかなかった。そして人間と同じようになられた。人間が神のようになりたいいうのはわかります。
ぴんとこないかも知れません。具体的に言いますと、見的な栄光、見栄え、人が羨むような能力、才能、美貌を持ちたい。そうしてスポットライを浴びたい。あの人はすごいね、さすがだね、才能あるよね。頭いいね。ほめられたい、憧れの的になりたい。誰だってそうです。いや自分は興味ないという人がいるかも知れません。それは素質がないだけの話しです。例外なく上を目指す、ダメな人は諦める。根っ子は同じです。すべてがそうなるとは言えませんが、歪んだ関係は組織、民族、国家などあらゆるところでエスカレートします。関係性を壊してしまうことがよくあります。最悪、互いに殺しあう、原子爆弾を落とす。しかし、キリストが人となったのです。神という権利を捨てた。放棄した。そして神の人に仕える者となった。これ以上大きな犠牲はありません。7節の「仕える者」というのは奴隷という意味があります。神が人の奴隷になったのです。なぜそうしたのでしょうか。それは私を、あなたを、救うために神が人となったのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。そうして神にのろわれた者として神の怒りを全身に受けて死なれたのです。それは私たちの罪のためです。
皆さん、こんな神を想像できるでしょうか。どんなに考えても思いつかないと思います。私たちの価値観では正しいキリストを思い描けないのです。聖書にしか書かれていません。どうしても聖霊の働きが必要になります。
その結果、どうなったのかが説明されています。2章9節から11節です。
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2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
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キリストは完全に死なれました。しかし、父なる神は十字架と復活がこれほど正確に説明された文章は他にないと思います。まさに永遠の神の真理がここにあるのです。
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2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
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私たちが学べること。自分の立場に固執しない。私たちは、多かれ少なかれ自己中心的です。この自己中心こそ罪の本質です。私達は多くの棄てがたいものに固執します。しがみつきます。時には、これなしには生きられないと思いがちです。「共生」という言葉があります。「共に生きる」、共生社会とも言います。心地良い響きがありますが、簡単ではありません。一皮むけば敵対したり、搾取したり、支配したりすることと表裏一体です。しかし、主イエスの模範に学ぶ、キリストの思いを自分の思いとする。それは主の恵みによって可能になります。
 
お祈りを致します。

4月7日「神の栄冠を得るために」ピリピ3:8-14
3:8,それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また 3:9,キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。3:10,私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、3:11,どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。3:12,私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。3:13,兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、3:14,キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

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使徒パウロがピリピの教会に宛てた手紙です。
このときパウロは投獄されていました。1章7節; 13節; 17節などがそれを裏づけている。しかし、全体を読めばすぐに分かります。重苦しい内容ではありません。むしろ希望、生きる意味を語ります。現代の私たちは、「生きる目的は何か」などあまり考えないかもしれません。あるいは聞かれても、スパッと答える人は少ないかも知れません。この点、パウロの人生観は明確でした。自分は何であるのか、生きる意味はどこにあるのか。そのために何をすれば良いのか。ここから私たちもキリスト者として生きる根源的を学びたいと思います。
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3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
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パウロはキリストに出会う前は教会を迫害していました。クリスチャンを殺意に燃えて片っ端から捕まえていた。彼は原理主義者、暴力団の親分みたいな人だった。ところが、ダマスコで「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」とキリストの声を聞くわけです。どうしようもない暴力男が神によって見いだされる、一方的な神の愛があった。それは「キリスト・イエスを知っている」ということ。
彼の人生最大の出来事は、キリスト・イエスを知ったということ。キリストを救い主として受け入れ、信じたことに比較すれば、他のことは「ちりあくた」、ごみくずみないなものだ。
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それは、私には、キリストを得、また、3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
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「律法による義」、義とは「正しい道」とか「道理にかなったこと」という意味があります。ここは難しいことを言っているようですが、要するに当時のユダヤ人は救いというのは、ただ信じるだけではだめだ、善行を積まなければならない。これは宗教改革者マルチンルターも長い修道院生活で修業を重ねたが、救いの確信を得ることができなかった。ところが義人は信仰によって生きるというローマ人への手紙の御ことばに出会う、そうして宗教改革が始まるわけです。信じる者は救われるのですが、これは矛盾するようなのですが、同時に自分もそれに応えていかなければならないわけです。
れが今日のテーマになっています。
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3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11:どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。12:私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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繰り返します。信仰というのは無代価で与えられるのだけれど、同時に自分も、行いをもって応えていかなければならないわけです。結局それは行いではないかというかも知れません。信仰にはこの両極端とも言える両面性がある。救いは、タナボタ式に落ちてくるわけではないのです。皆さんもきょうこうして、日曜日、朝早く起きて教会に来る。あるいは教会の行事に参加する、考えると大変なことです。救いは無条件で与えられるのですが、一方で陸上選手のように全身全霊を尽くして走らなければならない厳しさがある。

その中には10節の「復活の力」は罪と死の力からの解放、「キリストの苦しみにあずかる」は、イエスさまが受けたようなさまざまな苦しみを私たちも同じように味わう。「キリストの死と同じ状態になり」、とも言います。パウロは大きな伝道旅行を3回行っています。そして当時の小アジアとヨーロッパに10個以上の教会を開拓しました。あとは気楽な老後の生活を送る。日本風に言えば、老後 ご近所の隠居と将棋でも指して、盆栽を眺めて過ごすこともできた。しかし、14節、彼は自分はすでに得たとは思いませんでした。「ただ捕えようとして、追求しているのです。」双六 (すごろく) というゲームがあります。そのゴールは、あがりですが、キリスト者の人生に「あがり」はありません。私達は生涯、求道者です。すべて分かったという次元にいるわけではないのです。いつも未熟であり、失敗もすれば、間違いもおかす。しかし、それでもゴールに向かって走る。パウロは14節で、みんなで走る陸上競技に例えていますが、間違えてはいけないのは、戦う相手は自分自身です。他人と比べて一喜一憂するのではありません。自分自身との戦いです。繰り返しますが、自分が救われた、それで終りではありません。
12節、「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」私たちはキリストに捕らえられた者です。イエスさまに身柄を拘束されている。
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3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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使徒パウロの生きるエネルギー、原動力がここにある。人生を走り抜く力の源がここにある。自分はキリストに召しだされた。

話を変えますが、日本は自殺が一時期、年間3万人を突破していました。ここ数年減っていますが、今でも年間2万人以上の人々が、自ら命を絶っています。特に15~34歳の若い世代で死因の1位が自殺となっているのは先進7か国で日本だけです。また高齢者人口は3500万人。3人に1人です。老人の孤独死も増えています。年間約3万人です。確かに表向きは便利な時代になりました。しかし、その中で多くの人達が孤独、不安を抱えている。

教会もリニューアルします。私たちの自己満足の教会ではありません。教会に来たことのない人のための居場所になる。これからカフェができるなら、これもできるね。コンサートができるならこれもできるね。あれもできるね。次々と連鎖をしていくわけです。それを実戦することは大変なことです。
12節、「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」と言っています。そのために私たちも用いられたいと思そのために14節、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。自分の生涯をふり返るとき、神さまから「大変だったけれど、よくやったね」言われるような人生でありたいと思います。



3月31日「十字架のことば」Ⅰコリント1:18-31

1:18,十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。19,それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」20,知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21,事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。22,ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24,しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25,なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。26,兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27,しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28,また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29,これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。30,しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。31,まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
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1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
これがきょうの御ことばになります。単純にして明快な聖句です。ぜひ暗誦してください。私たちが救われる根拠はこれ以外にありません。
それは「十字架のことば」です。「十字架のことば」とは、イエスさまが私たちの罪の身代りになって死なれた、そして永遠のいのちを与えるために復活された。そのことを信じるときに救われる。十字架で起こった出来事、その証し、ですからそれは言葉なのです。「十字架の思想」とか「十字架の哲学」ではありません。思想や哲学で救われるわけではないのです。まして努力や頑張りではありません。「十字架のことば」が人を救います。
教会の使命は十字架のことばを福音として伝える。これが宣教の一丁目一番地、これ以外のものではありません。同時に十字架の言葉は人間を二種類に切りわけます。「滅びに至る人々」と「救いを受ける私たち」です。滅びに至る人々とはどういう人か。十字架で人が救われる? 何を言っているんだ、バカバカしいという人です。皆さんもご存知ですが、処刑としての十字架はローマ帝国内の奴隷の叛乱を力尽くで抑えこむために考えだされたものと言われています。貼りつけにして長時間苦しみながら衰弱死させる見せしめの道具。実にむごたらしい残酷無慈悲なものです。特にユダヤ人にとっては「木にかけられる者は、すべてのろわれる」とガラテヤにあるように神にのろわれた最悪の処刑。その十字架のことば、それを信じるだけで誰でも救われる。何もしなくても良いのです。

どうでしょうか。これを簡単に信じられる人はいないと思います。もし人が救われるまっとうな宗教があるとすれば、そんなものではない。
誰もがそう思う。ところが、それが滅びに至る人々だというのです。つまり十字架のことばの関わりによって、「滅んでいく者」と「救われる者」が十字架によって切りわけられてしまう。なぜか。
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19節、「それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
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21節にも「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」ここが大事なところですが、十字架のことばは、神があえて信じにくくしているのです。十字架は大きなつまづきになっている。蹴躓いてしまうのです。十字架のことばにはパスワードがかかっているのです。神がそうしているのです。これが神の知恵です。正確に言いますと聖霊の働きがなければ信じられない。神さまが決めた救いの唯一の方法です。だから教会は十字架に付けられたキリストを伝える。そのものすばりです。28節では、「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」教会に来る人達は聖書に言わせると愚か者、あほんだら、バカげた人達です。それは神がお決めになったことなのです。

十字架の話しをしなかったらもっと多くの人が集まると思います。頑張れる方法、もうかる方法、病気のいやしとか、人生訓話、こういう話をした方がもっと集まると思います。しかし、神は、そのような救いの計画をしなかった。十字架のことばによってでしか救いはない。
繰り返しますが、これは神がお決めになったことなのです。それは傲慢な人をはじくためです。救われない人は、失礼な言い方ですが、一見謙そんそうに見えても、深いところでは傲慢なところがあるのです。私たちには分からなくても神はご存知です。
「わたしが来たのは義人を招くためではない。」本当に自分は罪深い者だと思っている人だけを救う。これは神ご自身が決めたことなのです。と言って救われた人も誇ることはゆるされていません。29節「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」ただただ恵みでしかないわけです。

もう一度話をまとめます。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
そして21節では「信じる者を救おうと定められたのです。」十字架のことばとは何か、「イエスさまが私たちの罪の身代りになって死なれた、そして永遠のいのちを与えるために復活された。」そのことを信じるときに救われる。ただ信じるだけです。私はイエスさまが好きです、と言っても救われません。イエスさまは、愛のお方ですと言っても救われません。人間同士でも好いた惚れたと言っても嫌いになることがあります。こっちの事情はいくらでも変わります。私たちに言えることは「信じます」というシンプルなことばです。それ以外の言葉ではありません。では信じるとはどういうことか。まず決断です。信仰とは決断です。わからなくても「信じます」と告白する。信仰生活にはなぜこうなるのか、分からないことがたくさんあります。もうダメか、と思うこともたくさんあります。
マルコ 9章に息子が病気で苦しむ場面があります。その子の父はイエスさまに叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」すごい叫びだなと思います。信仰は、納得ではないのです。わかったら、信じますと言ってもいつまで経っても分かりません。
自分の知恵の延長線に救いがあるわけではないのです。十字架のことばは、信じることによってでしか乗りこえられない。ところが「十字架のことばを信じます」と信仰告白するとき、18節の後半「救いを受ける私たちには、神の力です。」神の力が恵みとして伴います。そこに聖霊が働きます。愚かさと賢さ、弱さと強さが逆転する。逆説の真理です。そうしてひとりひとり神の力を体験します。そうして救いだけではなく、日々、おりに敵った助けを受けることができる。だから教会は十字架に付けられたキリストを伝える。そのものすばりです。

 

祈ります。

    3月24四旬節第3主日 「悔いあらためて信じなさい」    ルカ13:1-9

ルカ 13:1,ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。2,イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。3,そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。4,また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。5,そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」6,イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。7,そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』8,番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。9,もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

13:1「 ちょうどそのとき、」とはどんな時であったのか。12章を読むと流れを理解できます。
12章35節から「主人の帰りを待つしもべ」の話し、12章41節から「不忠実な管理人」の話し、49節から「今の時代のしるしと、家族の分裂」の話し、54節から「最後の審判の直前の警告」。
イエスさまの話しがだんだんエスカレートしていく。イエスさまの願いは、一人でも多くの人が神にたち返ってほしいと考えていた「ちょうどそのとき」です。

「ある人たちがやって来て、イエスに報告した。」とあります。何を報告したのか。
「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたという」事件があった。
これだけでは、どういう事件か、私たちには分かりません。
当時、大きな政治的なニュースだったと思います。結局、ガリラヤの人達は神殿でピラトに殺されてしまうという悲劇が起きた。

13:4「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。」、「シロアムの塔が倒れ18人が死んだ」事故。当時のエルサレムに住んでいた人は誰も知っていた。これも、詳しいことは分かりませんが、悲惨な事故であったことは確かです。
要するにイエスさまは何を言いたいのか。人は突然の不幸に襲われることがあります。こういう言い方が正しいのかどうか、分かりませんが、それを知ったとき、まずかわいそうだと思うのだけれど、自分や家族でなくて良かったとも思います。あるいは不運の理由を考えます。なぜその人たちなのか、観客席から眺めるように何か理由づけをしてしまう。罰が当たる、という言い方もあります。自分のことは棚に上げて、何か不摂生があったのかなと考えてしまう。そして人ごとのように何ごともなかったかのように過ごす。

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

悔い改めがなければ、確実に滅びますよというのです。聖書が一貫して言っていることです。自分は大丈夫だとは、まったく根拠のない思い込みです。人は悔い改めなければ御国を受け継ぐことはできません。

ローマ 3:10,それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。11,悟りのある人はいない。神を求める人はいない。12,すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

すべての人が例外なく、罪を犯し、神からの栄誉を受けることができない、これが人間の現状です。
これが今の私たちの現実です。私たちはこのままでは助かりません。罪の怖ろしさとは何か、それは的を外した人が自ら神を尋ね求めることができないのです。自分で自分を救うことができないのです。神からの具体的なアプローチがない限り、救いはありません。つまり神の恵みがなければ救いはありません。自分のことは差し置いて人のことをどうこう言える者ではないのです。「あなたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。
そのために神は私たちのためにイエスさまを十字架に送って下さった。

そして
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

ご主人は父なる神で、ぶどう園の番人はキリストでしょう。ぶどう園になぜか、いちじくの木が植えられている。ところが実を結ばない。3年待っても「悔い改め」という実がないのです。あともう一年、お待ち下さい。「それでもだめなら、切り倒してください。」というのです。最後通告です。本当は切り倒したくないのです。今は刑の執行猶予の状態。

「悔い改めの実」というのは、具体的な信仰の「態度」、「結果」です。果物の実というのは2日や3日で収穫するものではありません。ある程度、日数や年月ががかかります。しかし、時を経て実がなると誰もが実がなっているなと分かるわけです。そのように考えるならば、この「実」というのは、聖書を読んで、祈り、讃美し、そうして積み重ねられ信仰の成果です。厳密に言いますとその実を評価するのは神さまです。
「あなたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

人は自分の命が一番大切です。去年、癌治療薬でノーベル賞をもらった京都大学の先生がいます。その薬は1年で数百万もしますが、しかし、多くの人がそれを求めていると聞きました。気持ちは分かります。高額でもそれで命が助かるチャンスがあるかもしれない。肉体の命はどんなことをしても維持したい。
しかし、皆さん、永遠のいのちに関しては無頓着です。罪を赦され、永遠のいのちが与えられるチャンスがある。今ならあるのです。このチャンスはこの世に生きている間だけ、死んでしまえば、チャンスは永遠に失われます。そして生きている者も、死んだ者もすべてが裁かれる日がやって来る。最も大きな問題は、そのことに気づかないのです。イエスさまは十字架で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」きょうは礼拝に来られました。頭を深く下げ、その椅子に坐れなかった。謙虚になることです。自分にはそんな必要ない、と頭を上げたまま入るなら頭にケガをしてします。それと同じです。そして、悔い改めは誰にでもできます。今すぐにできます。「あなたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」といわれます。だから悔いあらためて、イエスさまを信じていただきたいと思います。


3月17日の説教  「国籍は天に」ピリピ3:17-4:1

ピリピ 3:17,兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18,というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19,彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20,けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21,キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。4:1,そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

パウロがエペソの獄中でピリピの人達に宛てた手紙です。17節、「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と記しています。「キリストを見ならう」ならわかりますが、自分を見ならってほしいとは中々言えません。傲慢な言葉に聞こえますが、パウロの生き方、あゆみ方、戦い方を語っているのです。常に前向き、建設的、肯定的でした。パウロはこう言っています。
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ピリピ 3:12,私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13,兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14,キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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働きにおいては、「地の果てまで」福音を届けるという目標。内においては「もっとキリストを知ること」を目標に全力で走り続けた人です。これはパウロ一人ではなく、みんなでゴールを目指して走り出しましょうというのです。なぜそのような言い方をしたのか。?
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3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
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「しばしば」、幾度も幾度も繰り返し言ってきた。そして「今も涙をもって言う」。そのことを考えるとパウロは悲しくて悲しくてたまらない。それは「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」具体的にどういう人なのか記されていませんが、十字架とは愛と赦しの象徴です。その十字架の愛と赦しに敵対する生き方とは、窮極的には自己中心的な生き方。そういう人達が多くいる。分かりやすく言いますと自分を神とすることです。そこに祈りがあるわけでも聖書のことばがあるわけでもない。神への賛美あるわけでもない、礼拝があるわけでもない。自分の思いだけでのみに従って歩む。自分がうまくやれば、それでいい。しかも本人がそれを自覚していない。知っていただきたいのは、全世界のすべてのもの、宇宙をも含めて、そして人間もまた、すべては神によって創造された被造物、造られたものであるということ。神以上のものでもなく、神にはなりえないということ、ただお一人、天地万物と人間を創造された造り主なる神のみが、唯一の神です。わたしたちは主の日の礼拝のたびごとに、神のみ言葉を聞き、神に祈り、神を賛美し、神との霊的な交わりを与えられています。主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされて、神と隣人とに仕えていく者とされ、そのようにして神の像を回復されるのです。その十字架に背を向ける。それは、「キリストの十字架の敵」である「最後は滅び」です。
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3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。----------------------------------------
「私たちの国籍は天にあります。」私達も日本国民として、或いは小田原、松田町、或いは神奈川県民として、それぞれの所属意識をもっています。だから地域社会の一員として生き、そのために地域に貢献することは大切ですが、同時にクリスチャンとして天に国籍を持ちます。
「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」再臨と言いますが、天から再び来り給う主イエス・キリストをひたすらに待ち望むのです。そして、もっと素晴らしいことは、「私たちの卑しいからだ」、やがて、老いて死んで朽ちていくからだです。そのからだをキリストの似姿に変えてくださることです。先日は私たちの復活はどのようになるのか、聖書から学びましたが、「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」外側の姿も栄光に満ちたものに変えられますが、それ以上に、内側の品性も、キリストらしく変えて下さる。それは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって」といっています。
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4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
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だからふらふらする必要はありません。しっかりと天国を目指して、この世の人生を全うしましょう。 皆さんは、すでに天国の市民に登録しましたか。住民登録が未だの方は、天国の戸籍係であるイエスさまを信じ、その自分の名前を登録しましょう。すでに登録済みの方は、天に目を向けながら、しかし、足元もしっかり固めながら、今週の歩みを全うしましょう。  

お祈りを致します。


3月10日四旬節第1主日 「誰でも救われる」ローマ10:8-13
パウロは「では、どう言っていますか。」で始まります。
「では」という接続詞は、9章の13節から始まっている「行いによる義か、信仰による義か」についてです。
その結論が10章8節からの説明です。
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10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
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この鉤カッコの聖句、申命記30章14節の御ことばです。
ところが実際の申命記 30:14は「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」聞いて分かるとおりパウロは「あなたはこれを行なうことができる。」ということばを引用しなかったのです。なぜ引用しなかったのか?
推測ですが、おそらく「信仰による義」ということを言いたかったわけです。つまり「行いによって救われるわけではなく信仰によって救われる」これを言いたかった。
そして「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのです。
大変味わい深い言葉です。この御ことばは、救いの御ことばです。
その救いの言葉は「あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのです。
今皆さんが手に持っている聖書にも書かれています。
そして毎週、日曜日、聖書のことばが読まれ、朗読され、救いの言葉が語られています。
あるいは讃美歌の歌詞の中にもあります。そうして、神が人となって来て下さった。
「あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのは厳密に言うとあなたの中にあるということです。
だから、だれでも救われます。難しいことは何一つありません。
世の中にはいろいろな宗教があります。しかし、救いはあんがい不公平です。さとりを開いた人だけが救われる、一生懸命に努力や修行をした人だけが救われる。つまり人間の努力次第で与えられる救いが変わってしまう。
あなた次第ですよ、というのです。
しかし、私たちの神は「救いのみことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」
救いはどなたにも開かれている。
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10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
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口で告白し、心で信じて、救われる。イエスさまは私の主、「私の唯一の神さま」です。
そして「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
口で告白し、心で信じて、救われる。口だけではダメです。「イエスさまは私の主です。」誰でも言えます。ということは、口先だけで中味のない言葉、形式的な言葉になってしまう可能性がある。特に日本人は本音と建て前を使い分けますから要注意です。
しかし、逆にこういう人も時々います。
私は、口には決して出しませんが、本当は心の中で信じているのですよ。しかし、私は口には出しません。
それでは本当に何を信じているのか、分かりませんね。抽象的な話しで具体性に欠けます。
だから口だけではダメなんです。また心の中だけでもダメです。
心の思いと口の言葉を一致させることです。
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「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
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あなたは本当に救われているでしょうか。?実際はどうなのでしょうか。?
救われる、という条件を満たしているでしょうか。?
皆さん、今、あなたの口でイエスを主と告白できるでしょうか。?
そして、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じているでしょうか?
それはいのちにかかわることなのです。
ぼそぼそと言うのではなく、誰にでも聞こえる声で、はっきりと「イエスさまは私の主です」と声に出すことができるでしょうか。今できるでしょうか。
また心で「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じている」でしょうか。
聖書が教える救いはシンプルです。何もする必要はありません。
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10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
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告白とは、自分の信仰を公にすることです。皆の前で明らかにすることです。
それは恥ずかしい、人から何と思われるか分からない。
イエスさまは「わたしを人の前で知らないと言う者は、わたしもあなたを神の御使いたちの前で知らない」と言われます。あなたも知らないなら、わたしも知らない。
パウロは「私は福音を恥じとしない」と言いました。
「10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ぜひ暗誦して下さい。
ローマ人への手紙10章10節、ローマ10の10です。ぜひ今週、毎朝、起床したならこの聖句を繰り返して下さい。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
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10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
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皆さんが行きづまったとき、もうダメかなと思ったときにこの聖句を思い出して下さい。
そこに必ず希望が見えてきます。
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10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
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福音は国籍、民族、人種、文化を超えます。すべての人の主です。
すべての人に同じ条件で救いが提供されています。だた呼び求めればいいのです。
自分の無力さを自覚し、全能である主を呼び求めればいいのです。必ず応えてくださる。
救いのための条件はただ一つ、キリストを主と仰ぐことだけです。
修行も、訓練も、予備知識も、まったく必要ありません。


10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
繰り返しますが、例外はありません。あなたも救われます。

祈ります。

3月3日「死は勝利に飲まれたた」Ⅰコリント15:51-58 

きょうが顕現節の最後、来週から四旬節に入りますが、きょうの個所、イースターのメッセージ個所です。顕現節になぜこの個所が選ばれているのか。「顕現」は「はっきりと姿が現れること」。キリストのよみがえり、私たちのよみがえりも顕現になる。今日のテーマは復活です。第1コリント15章全体は「キリストの復活と希望」が記されています。それを象徴する言葉が54節「死は勝利にのまれた。」「死」は人類最大で最後の敵といってよいと思います。聖書は復活を約束していますが、復活がなければキリスト教も教会も存在しなかったと思います。キリストは私たちの罪のために死なれ同時に復活した。だから
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15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
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「奥義」神の啓示によってのみ知り得る霊的真理。神に従順な人には明らかにされるが、従順ではない人には覆いがかかってしまう。その奥義とはキリストはよみがえったように私たちもよみがえるということです。このことを聖書は福音と言っています。良い知らせです。「福音」はキリスト教用語ではありません。株でもうかったとか、病気が完治する薬、飛びぬけて便利な物等にも使われます。しかし、これほどの福音、良きおとずれはこの世に存在しません。教会には他の宗教のように拝むもの、銅像、木像とか仏像のようなものはありません。神の御ことば、聖書を信仰の手掛りとして福音、良きおとずれを信じる。これが救いです。
その福音とは15:1-2
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1コリント 15:1-2,兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
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聖書に記されている福音を信じる。これが救いです。更にこうも言っています。
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1コリント 15:3,私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4,また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
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最も大切なことととパウロは言っています。福音の中の福音、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、そして復活して下さった。この福音を信じるなら、どんな人でも救われます。これが福音です。
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15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。----------------------------------------
「終りのラッパ」は象徴的な表現で、ヨハネ黙示録に登場する終末を告げる七人の御使いのトランペット奏者が吹くラッパです。このとき私たちはたちまち変えられる。私たちがよみがえるときにどんな身体に変えられるのか。ここだけではよく分かりません。皆さん、どんなふうに考えているでしょうか。以前「千の風になって」という歌がはやりました。「お墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません。自分は千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」という素敵な詩です。確かに慰められる詩ですが、間違いです。霊魂は肉体を離れて存続するというのではありません。それだと幽霊のような存在です。聖書は、私たちはイエスさまと同じように復活をすると記されています。このことを「復活体」とも言います。イエスさまも復活したときに弟子達はビックリしました。
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ルカ 24:38,すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39,わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
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トマスは信じられなかった。復活しても十字架の傷跡があった。肉体は滅びない霊の肉体として引き継ぎます。といって物理的な法則には縛られません。閉めきった部屋を壁や扉をすり抜けて出入りしました。エマオへ行く途中で消えてしまったかと思うとガリラヤ湖畔に現れる。そして焼き魚を食べている。と言って食物がなければ生存できないような体ではない。復活してもイエスさまのご人格、品性は受け継いでいました。個性や性格が変わるわけではないのです。
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15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
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復活は歴史の事実です。皆さんの中には理性的には信じられないと考えるかもしれません。聖書は理性を超えた書物ですから、復活を証明することは難しいかも知れません。全世界のクリスチャンは20億以上、人口の3割、キリストの復活の証拠でもあります。人生はせいぜい80年とか90年、長くて100年、永遠に比べたら束の間。これほどの福音は他にありません。神は今も生きて働いています。
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15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
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これほどの福音はありません。感謝以外にありません。
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15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
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私たちは何を生きがいに生きているのでしょう。この地上のことしか知らないなら「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と刹那的なものです。しかし、キリストの復活によって、罪許され、神の子として、永遠のいのちが与えられ、永遠の世界が約束されていることを知っているなら、「いつも主のわざに励む」人生へと私たちを導いてくれるのです。私たちは神によって与えられた役割があります。それを最善のものと信じて生きていくことができます。神は、そのときに無駄な奉仕、無意味な仕事をお与えになりません。人の目には無駄に見えても、そこには意味がある。

58節は、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と締め括ります。

お祈りを致します。

2月24日の説教「あなたの敵を愛しなさい」ルカ6:27-38
あなたは私たちを引きあげるためにご自分を低くし、へりくだられました。あなたは私たちが豊かになるために、貧しくなりました。あなたは私たちを永遠のいのちに預からせるために私たちと同じになりました。私たちは誰ひとりとしてまったく受ける資格のない者ですが、主イエスがそれをなしてくださいました。それゆえにあなたを誉めたたえます。それゆえに私たちを福音の宣教者として用いてくださいますように。日本のために祈ります。本日、沖縄米軍普天間基地移設に伴う埋め立ての賛否を問う県民投票が始まっています。戦後、基地問題で大きな痛みを負ってきました。どうか一日も早く基地のない沖縄を取りもどすことができますように。教会に連なる全ての兄弟姉妹達のために祈ります。どうかお一人びとりを顧みお守り下さいますように。お年を召されて礼拝に出ることが難しくなった方々にはあなたがいつもそばにいて支えてくださいますように。また会堂の改修が進んでいますが、御心にかなった改修ができますように。すべてを導き必要を満たして下さい。今週もそしてこの街に住む全ての市民の方々の上にあなたの恵みが豊かにありますように。今から語られる御ことばに聞く耳をお与え下さい。
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ルカ6:27-38
6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。6:31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
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先週の続きになります。イエスさまが山から下りて人々に語った教えです。

6:27から「あなたの敵を愛しなさい。」
6:28「あなたをのろう者を祝福しなさい。」
6:29「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

イエスさまは、私たちにどんどん難しいことを要求をしてきます。
聞く方は困惑してしまいます。
象徴的な言葉が「敵を愛しなさい」が27節、35節と2回出てきます。

あの人が好きではない、馬が合わない、というレベルだったらまだしも、その人に苦しめられ、傷つけられた。
しかも、何の反省もしていない人を赦すことは、私たちには不可能です。
百歩譲って「敵を愛することは良いことだ」と頭で考えても実際に行動に出ることは至難の業です。

それからこうもおっしゃっています。
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6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
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罪人達ですら、という言葉、33節、34節にも出てきます。
世の中には確かに悪い人もいます。そういう人達ですら「自分を愛する者を愛している」。
人はだいたい自分は善人だと考えています。
ところが神の目から見るならば、人は五十歩百歩、似たり寄ったりだというのです。
クリスチャンはその程度の愛ではなく、もっと踏みこんだ愛が必要だというのです。

そして
★35節でふたたび、「自分の敵を愛しなさい。」と命令しています。
やはり、どう考えても不可能なことです。
私も考えてみました。
なぜか、それは私たちには「敵を無条件で愛する」という、心、良心がないのです。
そのように造られていないのです。

★ではどこにあるのか。その愛は神の中にあります。三位一体の神の中にあるわけです。
ですから、この神と無縁で、神など全く信じない世界に居る限り、それを行動に結び付けるのは不可能です。
頭でわかっていても、キリストと結び付かない限り実現しません。

そこできょうの聖句
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6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。 
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「あわれみ」という言葉がふたつあります。
しかし、日本語で「あわれみ」ということばあまり馴染みがありません。
翻訳の問題もあります。日常会話では好んで使う言葉ではありません。
「あわれむ」というと気の毒な人を上から目線で見るようなことばです。
よい意味で使われることはありません。

ところが聖書では重要な言葉として頻繁に出てきます。
原語では「はらわたがちぎれるほど、悲しくつらいこと」という意味があります。
英語では「コンパッション」、もともとはラテン語で「共に苦しむ」とか「熱情をもって事に当たる」という意味もあります。かなり前に「パッション」というキリストが処刑されるまでの12時間を描いた映画が話題になりました。
日本語の「あわれみ」とはかなりニュアンスが異なります。
そして「あわれみ」を「かわいそう」と訳している個所があります。

ルカ福音書10章で良きサマリヤ人が強盗に襲われた人を助ける場面で使われています。
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ルカ 10:33,ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
ルカ 10:34,近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
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皆さんよくご存知の個所です。
それから放蕩息子が帰ってくる場面で
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ルカ 15:20,こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
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ここでも「かわいそう」と言っています。憐れむとは「かわいそう」に思うことです。
ひとことで言いますと「痛み」です。
その状況を知って、「なんてかわいそうなのだろう、辛いだろうな。悲しいだろうな。」と。

サマリヤ人が強盗に襲われた人を見つけ介抱した。そのときかわいそうに思った。
倒れていた人はユダヤ人でサマリヤ人とは仲が良くなかった。
だから助けなくても良かったのですが、しかし、この人はかわいそうに思った。
ここがポイントです。そして倒れていた人の痛みを自分の痛みとして引き受けた。

放蕩息子が帰ってくる。
この息子はバカ息子です。自分のやるべきことをやらず、飲酒や遊びにうつつをぬかしていた。
本当はどうでもいいのです。しかし、父親はかわいそうに思って息子の痛みを自分の痛みとして引き受けた。

★ここがポイントです。
この「痛み」を理解しないと神も聖書も理解できません。
私たちの神、「痛む神」なのです。
お母さんが、子どもの人生がうまくいかないとき「つらさ」のあまりに涙を流す。
そのように、神さまも罪人の私たちが神の御心にかなわないのをご覧になるとき、その「痛み」をご自分に引き受ける。

自業自得だ、懲らしめてやろうとは言わないのです。
その痛みを担い、その痛みを耐えることを通して罪人を受け入れてくださった。
ここに神の愛があります。それこそイエス・キリストの十字架なのです。
本来「受け入れられない者が受け入れられる」、「赦されない者が赦される」。

話しを戻します。
32節、35節で「自分の敵を愛しなさい。」と命令しています。
どう考えても不可能だと申しあげました。
なぜか、それは私たちには「敵を愛する」という、心、良心がないのです。
そのように造られていないのです。
どこにあるのか。その愛は神の中にあります。

キリストと出会うとき、全てではないにしろ、あなたもできるよと言うわけです。
キリストは私の痛みを追って下さった。だからあなたにも「自分の敵を愛しなさい」と命令します。
もちろん全部ができるとは思いませんが、場合によってはできなくはない。

十字架とはキリストの愛のコンパッションなのです。
日本語で表せば「共感共苦」。自分の痛みを無条件で負ってくれる人と出会うとき、癒やされます。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロは勧めています。
キリストが私たちの苦しみを担ってくださったように、私たちもまたキリストの苦しみを担う者でありたいと思います。
私たちも私たちの隣人の痛みを担う者でありたと思います。キリストがそうなさったように。


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2月17日の説教 「貧しき者は幸いです」ルカ6:17-26

ルカ6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海ベから来た大ぜいの民衆がそこにいた。6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。6:22 人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。6:23 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。
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きょうの個所はマタイ福音書では「山上の垂訓」とか「山上の説教」といわれています。山の上で語られたからです。ルカ福音書では
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6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海ベから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
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と場所が山から平地になっています。近くには民家がたくさんあったでしょう。
多くの弟子達の他、大勢の民衆がいたとあります。まさに巷です。
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6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
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「汚れた霊に悩まされていた人たち」とは今でいうと心の病を持つ人達だろうと思います。
そしていやしがなされます。先週も触れましたが、人達はイエスさまを求めていました。
神への何の期待もない信仰は有り得ません。
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ヘブル 11:1,信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
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求める者は受けるのです。ここには生きることに疲れ、苦しみ、悲しみを抱えた人。さまざまな人達がいたに違いありません。今の時代と似ています。このときイエスさまは真面目に生きろとか、正直に生きろなど、道徳訓話のようなことは言わなかった。ストレートに神の祝福を語りました。----------------------------------------
6:20「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
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「あなたがたは幸いです」と集まった人達を祝福されました。これは神の祝福です。「神の祝福」は、一度祝福してしまうと、取り消し、撤回することができません。私たちは何か約束しても反故になることがありますが、父なる神は、「すべてのことをご自分のご計画どおりに成し遂げられる方」なのです。聖書の言葉を引用し、神が語られた。ヘブライ語で「アーメン」、そのとおりですという意味になります。その最初の祝福のことばが「貧しい者は幸いです。」聞いた人達は耳を疑ったと思います。いったいどうしてさいわいなのか。ここがポイントです。「貧しさ」そのものがさいわいだというのではありません。貧しさは、自身や家族も大変なことです。場合によっては食べ物がないとか、病院に行けないとか、借金をするとか。それが良いとおっしゃっているわけではないのです。しかし、自分でもどうしようもない貧しさを負ってしまうことがあります。その人の責任ではないのにどうやっても這い上がれないことがあります。そこで自分の無力さをいやというほど覚えるでしょう。しかし、貧しさのゆえに真剣に神を求めるなら、あなたは神に出会い、さいわいが約束されますよ、とイエスさまはおっしゃっています。そこにはどうしても祈りが必要になります。「神さま、私は貧しいのです。どうか私を助けてください」と祈るなら神は聞いてくださる。自分の無力さを神に祈ることで神と出会うなら、あなたはさいわいを得るというのです。ですから、繰りかえし言いますが、神に求める必要があります。先週も引用しましたが、
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ヨハネ 16:24,あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
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求める者は必ず与えられます。神の約束です。しかし、私は自分が貧しいと感じたこともないし、経済的な余裕がある、という人もいるでしょう。ではお金があればいいのか、というとそれほど単純ではない。何不自由もなくゴージャス生活をしていても、誰からも必要とされない、愛されていないという貧しさもあります。「心の貧しさ」です。ザアカイがそうでした。同じルカ福音書19章に記されています。彼は税務署の役人でした。税金を取り立てる仕事は歓迎されていませんでした。お金がありましたが、誰からも相手にされなかった。しかし、彼はキリストと出会います。いちじく桑の木の下で「ザアカイ、降りてきなさい。わたしはあなたのところに泊まることにしている」と言われて家に迎えるのです。こうして180度人生が変えられました。
私たちもひとりひとり様々な問題を負っています。しかし、イエスさまは「それはあなたの問題だ。頑張りなさい」とは言いません。
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6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
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飢えという辛さを通してキリストと出会う。悲しみを通してキリストと出会う。人生、楽しいことよりも辛く、悲しいことのほうが多いと思います。そのその苦しみ、辛さを自分で抱えるのではなく、神に正直に訴えるのです。なぜでしょうか。私たちは神さまなしに生きることができないのです。そのように造られているのです。羊には羊飼が必要なように自分を導き、見守って下さる方を必要としています。人間は強い存在としてではなく、むしろ弱い存在として造られています。程度の差こそあれ、誰でも間違いも犯せば、失敗もする。疲れることもあれば、病気になることもある。しかし、そのことを通して神を見出すならさいわいを得る。このことを逆に考えたら分かると思います。最悪の人生は、神さまなんかいらない。自分は物やお金がある、能力があるから大丈夫だと思ってします。誰のお世話にもならないと考えているかも知れません。そうして自分にも人にも叱咤激励し、頑張って生きている。そうして本来、岩の上に自分の家を建てなければならないのに、砂の上に家を建ててしまう。最悪です。聖書は神抜きの人生は最後は滅びだと宣言しています。しかし、貧しさを通して神を求めるなら、さいわいが約束されるというです。
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詩篇 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
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私達の人生で苦しみや、悲しみに出会うこともあるでしょう。しかし、苦しみ・悲しみに会うとき、同時に神に出遭えるチャンスになります。そして祝福が与えられます。ここでは「神の国はあなたがたのものですから。」神の国とは神が治める、支配するという意味があります。その神の国が約束される。神を信じて祈りつつ人生を歩む。それがさいわいなのです。「求めなさい、そうすれば与えられる」とイエスさまがおっしゃるとおりです。


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2月10日の説教 人間をとる漁師 ルカ5:1-11
天地の造り主、歴史の導き手、恵みと憐れみに冨たもう全能の神さま、会堂改修工事の真っ只中ですが、このように私達を御許に呼び集めて御ことばに聞かせ、あなたの御名を崇めさせて下さることを心から感謝致します。教会に連なる全ての兄弟達、姉妹達のために祈ります。寒い日が続いていますが、体調を崩している方、お年を召された方、お一人お一人をそばにいて支えて下さいますように。御ことばが語られますが、信仰を持って受けとめることができますように。松田町の町民と近隣の人々に祝福がありますように。
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5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられた
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このときの様子が生き生きと描かれています。人々は病気のいやしでもなく、奇跡でもなく神のことばを聞くために集まってきました。
何でもない文章のように思いますが、ここに教会のルーツ、始まりがあります。教会とは「神のことばが語られ、それを聞くところ」です。それ以外のところではありません。讃美歌を歌ったり、食事をしますが、それが目的ではありません。
「神のことばが語られ、それを聞くところ」です。人々は喜びと希望、生きる目的を見いだすために、怒涛のごとく押しよせてきた。
いのちの言葉を聞いて生かされるためにです。このとき「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いた」。2千年前、こうして教会が始まりました。
今日、わたしたちも、これほど真剣に集まってきているでしょうか。人々は、何の希望もなく羊飼のいない羊のように弱りはてていました。今の時代と似ています。時代は違っても神は求める人に与えます。イエスさまはおっしゃっています。
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ヨハネ 16:24,あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
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与えられないのは求めないからです。求める者は必ず与えられます。
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5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
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イエスさまは「二そうの小舟」をご覧になった。この小舟の中に魚があったのでしょうか。前の日の夜から漁師たちは、夜を徹して漁をした。しかし、まったく捕れなかったのです。
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みことばを求めて我も我もと押しせまる群衆と、すぐそのわきに、一晩中、労して疲れはてた、何も収穫がなかった漁師達がいます。
なんとも対称的な光景です。しかし、イエスさまが、ごらんになったのは、失意のどん底にあった漁師達です。そして空の小舟です。
それだけではなく、何の役にも立たなかった舟を用いました。
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5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
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こうしてイエスさまは神のことばを語るためにシモンの舟を用いました。皆さん、考えてみてください。励まされます。失意のどん底にあった漁師達をご覧になって、何の役にも立たなかった舟を用いました。神のことばが語られるところで、このような恵みが与えられます。
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5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
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「話が終わると」とあります。ここがポイントです。神の言葉は、語られた後に本当に生きて働きます。礼拝が終わった、やっとこれで終りだ。まるで映画館にいたような気分で、そのあとは、「風と共に去りぬ」で帰ってしまう。しかし、御ことば消えてなくなるわけではありません。御ことばは語り終えた後が大切なのです。礼拝が終わった、一人一人にキリストに語りかけます。
イエスはさまは、シモンに向かい言いました、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」とおっしゃいました。
今までイエスさまは群衆に向かって語っていましたが、今度はシモン一人に、語りかけられました。
なぜシモンに語りかけたのか、シモンは、イエスさまを知っていましたが、しかし、従ってはいませんでした。知っていることと、従っていることとは違います。シモンは知っていたけれど、従っていなかった。イエス・キリストについて山ほどの知識があってもそれだけの話しです。いくら知っていても何も起こりません。従うというのはまったく別なことです。
私たちの中にも、ただ岸辺で、網を洗っているだけの信仰があります。何も獲れなかった網を来る日も来る日も洗っている。何も起こりません。何も始まりません。ただ網を洗っているだけの話しです。やがて無気力になって諦めてしまう。
信仰とは決断です。「ヘブル 11:1,信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」それは決断し、御ことばに基づいて行動に出ることです。信仰は、キリストを信頼し、網を投げることから始まります。網を投げなかったら何も始まりません。
シモン・ペテロは、疲れていました。夜通し働いたというのに魚一匹捕れないという現実。
ところがシモンは答えました、
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5:5 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
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もう一度やってみようと思いました。ここに信仰の決断があります。キリストへの従順があります。夜通し働いたけれど、ダメだった。それは百も承知で、しかし、決断しました。きょうのポイント、第1に「でも」、第2に「おことばどうり」、第3に「網をおろしてみましょう」。
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5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
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シモンは腰が抜けるほど驚いたと思います。失意のどん底と大漁はと紙一重なのです。
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5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
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ここで注意するのは、シモンは、決して大漁の前にひれ伏したのではありません。それなら、単なる御利益物語ですが、彼は、イエス・キリスト、このお方の前にひれ伏したのです。つまり、ただ魚の収穫のためではありません。彼の魂の救いのためでした。それには、自分の空しさを知らなければなりません。本当に神の前に自分を全部投げ出さなくてはなりません。そして神の尊厳に打たれなくてはなりません。
シモン・ペテロは今まで、イエスさまをよく知っていた。そして交わり、親しくしていた。しかし、ここで「私は、罪深い人間ですから。」と告白しました。ペテロはどんな罪を犯したというのでしょうか。泥棒をしたのでしょうか。嘘をついたのでしょうか。あるいは律法を破ったのでしょうか。
ここが大事なところです。彼の罪というのは、生きて働く神を心から信じていなかったことです。「網をおろしても多分ダメだ、自分は漁師でよく分かっている」、そういう自負心がありました。クリスチャンといっても名ばかり、そういう人もいます。本当に信じているわけではない。だから深い部分では神さま抜きでも自分はやれると思っていたわけです。心から信じていたわけではないのです。
しかし、彼は木端微塵に打ちくだかれました。そして、本当にわたしは罪深い者に過ぎませんと告白しました。

このときイエスさまは
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」自分は神の前に罪人であると自覚した人を神は用います。神はこわい存在です。しかし、神が近づいてくださいます。私たちも畏敬の念をもって近づくことができる。そして信じきることができる。
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5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
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ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスさまに最も近い弟子でした。この三人は教会を代表する人達です。
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5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
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彼らは本物、正真正銘の弟子になりました。私たちもその様な恵みを受けていることを感謝したいと思います。

祈ります。


2月3日 「信仰・希望・愛」Ⅰコリント人への手紙第12章27節-13章13節   
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
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手紙の背景ですが、コリントの教会は、パウロの熱心な伝道によって生まれた教会でした。
ところがご存知のように様々な問題を抱えていました。時間の関係で、その問題を取りあげませんが、要するに「賜物」からくる問題です。「賜物」というのは本質的には神さまから「賜ったもの」、「いただき物」です。
そのことをパウロは分かりやすく説明しています。
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12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
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そして28節、29節では「使徒」つまり伝道者、「預言者」は神のことばを預かる人、「教師」は教える人。
他にも「奇跡を行う者」「いやしを行う者」「助ける者」、それぞれ役割分担があった。
それを今流に言いますと、話のうまい人、料理のうまい人、計算が得意な人、賛美のうまい人、良く祈る人、献げる人、教会には様々な人がいます。私たちの教会も皆さん素晴らしい賜物を持っている。
あるいはそういうことができる人もいれば、できない人もいる。
要するにパウロの言いたいことは、いろいろな事ができてもできなくても、それは自分に与えられた神からのすぐれた賜物であって
13:2「愛がないなら、何の値うちもありません。」というのです。
13:3「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
私たちは教会でも、地域でも、家庭でも、職場でも、自分はこうなんだと主張します。あるいはどんなに豪華な教会を建てても、「愛がないなら、何の値うちもありません。」逆もまたしかりで、私は何もできません、という人でも「愛」があれば素晴らしいクリスチャンと言えるわけです。その愛も賜物です。
この手紙の中でパウロは愛の徳性をドラマチックに記しています。
<13:4-8>
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13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。
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素晴らしい言葉です。ここは何も解説する必要はありません。読めば誰でも分かります。「愛」というのは全人類に普遍的なものです。互いにいつくしみ合う心、いとおしいと思う心、幸せを願う温かい心です。その愛は人格的なあらゆる交わりを可能にする力になります。人は愛なき世界で生きることはできません。
聖書には黄金律と言われる言葉があります。イエスさまが一番大事なことといわれた言葉です。
つまりぶれることのない人生の中心軸となる言葉です。
それは『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばです。
「キリスト教とはどんな宗教ですか、?キリスト教の教えの特徴は何ですか?」と聞かれたら、皆さんはどう答えますか?いろんな答えが返ってくるだろうと思います。「キリスト教とは神の愛の宗教である」といっても良いと思います。だから世界中に広がっています。旧約聖書、新約聖書合わせて、「愛」とか「愛する」という言葉が日本語の翻訳によって多少違ってくるのですが、およそ600回使われていると言われています。
きょうのポイントは、その愛は私たちが受けた愛なのです。
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Ⅰヨハネ 4:10,私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、十字架にかかった下さいました。ここに愛があるのです。
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それは選びの愛です。キリスト教の神は全世界のすべての民を愛され、すべての人を愛されます、誰も神の愛から漏れる人はおりません。あたかも、選ばれたあなた一人だけを愛するように集中的に注がれるのです。
あなたもわたしも、すべての人も、そのような一人のわたしとして、神はわたしを、あなたをお選びになり、愛されるのです。わたしたちの愛は、その対象によって左右されています。
その人が、愛すべき価値や魅力を持っているから、あるいは愛すべき理由とか、関係とかがあるから、愛します。
したがって、愛すべき理由が失われれば愛も薄れていく。
神の愛は対象によって左右されることはありません。状況によって変わるものでもありません。
神の愛は永遠不変であるとともに、すべての人がその愛の対象です。
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13:8 愛は決して絶えることがありません。
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愛はいつまでも残ります。だから、
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13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
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「すべて」が4回繰り返されています。このことばがクライマックスです。
人は変わらぬ愛を求めて生きています。しかし、状況によって「愛」が簡単に「憎しみ」に変わってしまうのです。
そのように私たちは多くの失敗、まちがいを犯します。しかし、神の愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」そんな神の愛を受けていますから、希望を持つことができます。それが生きる力になるのです。


1月27日の説教 「真実な人間性の回復」イザヤ61:1-6
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。61:5 他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
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今、皆さんイザヤ書を開けておりますが、はじめにルカ福音書を確認しておきます。週報にある交読のルカ4章。イエスさまは、悪魔の誘惑に勝利したあとガリラヤにお帰りになりました。そしていつものとおり安息日にナザレにあるユダヤ人の会堂でお話になる場面です。たまたま開かれたイザヤ書61章を朗読し、そこに集まってきた礼拝者に語り掛けました。固唾を呑んで見守る聴衆に向かって「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われました。

そのイザヤ書が本日の説教個所です。きょうの61章はイエスさまが伝えようとした核心がここにあります。希望に満ちた個所で、ここを読むとき、福音書にはない強い霊的インパクを受けます。おわかりだと思いますが、預言者イザヤが生きた時代を少しだけ解説します。当時、イスラエルが、同じ民族なのに南ユダ王国、北イスラエル王国という二つの国家に分裂していました。それがよく知られた「バビロン捕囚」といわれる事件です。およそ紀元前600年から3回行われました。多くのユダヤ人がバビロンに連れてゆかれます。それが70年続きます。その後、ペルシャ王、クロスによって解放される。その時の様子を預言したのがきょうのイザヤ書です。60章1節から始まっています。「起きよ、光を放て、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」罪の悔い改め、主によって贖われたシオンが、光り輝く存在になって、周りの国々を照らす。壮大な神の救いの御業がスタートする。
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61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
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この「わたし」は来たるべきメシア、キリストです。1節、「貧しい者に良い知らせを伝え」とあります。
そのすぐ後に「心の傷ついた者」とあります。私たちは多くの失敗やまちがいを犯し、深い部分で傷ついています。イエスさまは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。そして人々の罪を自分のこととして背負い、苦しみ、そして贖いを全うしてくださいました。私たちは、その福音を祈りによって受け取ることができます。更に「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」と言っています。直接的にはバビロン捕囚からの解放を意味しますが、霊的には罪からの自由です。パウロは、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と告白しています。イエスさまは悔い改めるものを赦し、立ち返るものを回復させて下さる。そして全人格的ないやしへと向かいます。----------------------------------------
61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
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きょうは「主の恵みの年」という言葉がポイントになっています。「主の恵みの年」とは少し説明が要ります。旧約時代の50年毎に「ヨベルの年」が到来しました。ヨベルとは「雄羊の角」という意味があります。雄羊の角笛が全国に響き渡ります。それを合図に人々は解放されます。奴隷も解放され、自分の故郷へ帰る。財産や土地、奴隷であっても、もともと神の所有物です。すべて所有者に戻されます。畑の耕作も禁止されます。1週間の終わり7日目を「安息日」といいます。年にも「安息年」が定められていて7年目ごとの最後の年が「安息年」。7年を7回繰り返しますと7×7で49年、翌年の50年目がヨベルの年。理解しにくいかも知れませんが、「恩赦」という制度があります。裁判所以外の判断で刑事罰の内容を変更する。あるいはなかったことにするという制度です。それに近いものだと考えて下さい。
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★61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
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主イエス福音そのものが、人々をこの世の罪から解放するヨベルの角笛だというのです。きょうの結論は、その角笛を聞く者は、誰であれ今までの罪の負債をキリストの尊い血潮を持って買い戻していただける。まったき罪の赦し、永遠のいのち、神の子としての祝福を受ける。
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61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
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このような祝福が手の届くところに在るよ、というのが「主の恵の年」という言葉です。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1-2)。いつですか、きょう、今なのです。
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ルカ福音書、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
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「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」イエスさまは「耳のある者は聞きなさい。」と言われました。おかしな言葉ですが、それは耳があるのに聞かない人が居るのです。ぜひ霊の耳をもって、祈り心を持って聞いて、心に刻み付けてほしいと思います。そのとき聞いた人にとって2019年は、聖書の言葉のとおり、まさしく恵みの年になります。

お祈りを致します。


1月20日の説教  「カナの婚礼」ヨハネ2:1-11
ヨハネ 2:1,それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2:2,イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。2:3,ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4,すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」2:5,母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6,さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。2:7,イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。2:8,イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。2:9,宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、2:10,言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」2:11,イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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きょうの個所、「カナの婚礼」と言われています。不思議な雰囲気のあるエピソードです。ことの善悪、あるいは道徳的訓話でもないし、律法の良し悪しでもない。また誰かの失敗を補うような話しでもない。結婚して幸せになる話しでもない。サッと読んだだけでは真理を掴みにくいところです。イエスさまと弟子達、そして母マリアが結婚式に招待された。しかし、新郎新婦の名前もわかりません。イエスさまと新郎新婦とはどこで知りあったのでしょうか。どういう関係でしょうか。
その婚礼でぶどう酒がなくなるという話しですが、当時のユダヤでは、ぶどう酒がどこでも飲まれていたわけではないようです。人々はほとんどが小作人。それほど豊かではありません。ところが結婚式のような御祝い事では盛大に振る舞う。そのために新郎新婦の家族は生活を切り詰め、貯えをし、親戚、友人、知人を招く。なぜぶどう酒がなくなったのか、理由が記されていません。しかし、招く方としては大失態です。宴の席でぶどう酒がないことは、飲みものがない有り得ない話しです。そのことが、母マリアからイエスさまに伝わりました。
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2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
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突きはなすような言い方ですが、「わたしの時」と言っています。時は神が支配する。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。」出来事の決定は人間ではなく常に神の御手のうちにある。そのことを母マリアは知っていました。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
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石の水瓶が100リットルとして、石の水瓶が6つですから重さで600キロです。これを水で満たす。大変な作業だったと思います。ここで「ユダヤ人のきよめのしきたり」とあります。ここがきょうのなぞ解きのポイントです。詳しいことは分かりませんが、モーセ律法とも関係があると思います。古来から伝わるユダヤ特有の「ならわし」、習慣となっているユダヤ教独自の「きよめのしきたり」があった。そうして身体を洗った。それが長い間繰り返し行われてきた。そのきよめの伝統儀式で使われていた水瓶があった。この水瓶の中に入れが水をイエスさまが真っ赤なぶどう酒に変えてしまうのです。繰り返します。ここがポイントです。新郎新婦の名前、ぶどう酒がなくなった理由、どうでもいいのです。ユダヤ教の古いしきたりにしがみついて、きよめの儀式を繰り返してきた。しかし、そこには真実な喜びがなかった。皆さんも気がついたと思います。石の水瓶が六つあった。六という数字、完全数の7に一つ足りない不完全数です。その六つの水瓶を全部、ぶどう酒に変えてしまう。
きょうは顕現節の第二主日です。「顕現」とは、神がはっきりと姿が現すこと。それをイエスさまは時代、歴史の転換としたわけです。古いしきたりである「石の水瓶」によるきよめの儀式は私たちを幸せにはしない。それをいくら繰り返したところで、そこには喜びはないのです。2019年、すでに始まっていますが、皆さんにとってどんな年になるでしょう。あいかわらず疲れはて、古い自分にしがみつくのでしょうか。聖書はいつも喜んでいなさいと言っています。疲れはてた時代から、新しく力を与えられる時代。それはキリストが与えてくださる喜びです。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
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わかりました。イエスさまの言われることは何でもします。そういう年でありたいと思います。古い時代は過ぎ去る。信じる者は新しくされる。「Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして最上のぶどう酒を振る舞った。
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2:10 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
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当時の祝宴ではこういうごまかしをやるのです。世の常です。酔ってしまうと、味覚が分からなくなるので、まだ酔っていない時に、美味しいぶどう酒を出して、酔っ払ったときには安いぶどう酒を出す。しかし、イエスさまによって祝宴の真っ盛りに最上のぶどう酒が出された。豊かな赤いぶどう酒は新しいメシアの時代を象徴する。来たるべき栄光の時代です。ぶどう酒は聖餐式にも使われます。キリストの血です。いのちです。キリストを信じるとき、すべてが変わる。水がキリストのいのちに変えられる。未だ来ていなかった時代が、ここにある。そうして神の御子イエスの隠された栄光が開示される。しかし、キリストを信じようとしない人には真理は隠されてしまう。
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2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。
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下働きの人達です。宴会で浮かれて騒いでいる人達は知らなかった。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」----------------------------------------
私たちも水を汲もうと思います。望むものを願うならば、かなえられる。
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2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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福音書で「しるし」というと十字架の贖いという意味があります。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」というのです。2019年、私たちもイエスさまを信じ、喜びの年にしたいと思います。

祈ります。

1月13日「イエスの洗礼」ルカ3:15-17.21-22
ルカ3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


きょうは15節から22節までですが、16節から20節はテーマとはさほど関係がないので省かれています。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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民衆は、バプテスマのヨハネは、メシアではないかと考えていました。そう考えるのは、旧約のあらゆる預言者が、メシア到来を預言し、ユダヤの人々も長年にわたって待ち望んでいたのです。
そこにヨハネが現れ、イザヤの言葉を引用し、「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」そうしてヨハネは、12節にもあるように、悔い改めのバプテスマ、洗礼を授けていました。
その時にイエスさまもバプテスマを受けたという聖書個所です。きょうは時間の都合で、16節と17節は省きます。21節と22節が本題です。イエスさまが洗礼を受ける場面です。バプテスマというギリシャ語は、ご存知のように「沈める」とか「浸す」という意味です。それは罪の赦しです。イエスさまは、罪の赦しの必要のない唯一の人です。このことはヨハネも知っていたと思います。なぜ、洗礼を受けたのか。理由が記されていません。そのことを考えてみたいと思います。まず、イエスさまは、何をしていたのかが記されています。
21節、後半、父なる神に祈っていたのです。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
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「祈っておられると、天が開け、」とあります。イエスさまは祈りの人でした。大切なときは、必ず祈ります。
「ゲッセマネの祈り」「お弟子を選ぶとき」「十字架の上」でも祈りました。その他、重大な場面では必ず祈ります。そのとき、
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天が開け、 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」その祈りの答えでもあったわけです。まさにキリストが神の子として宣言されるわけです。そして父なる神の御子イエスとして祝福を受けた。またそこには聖霊の働きがあった。まさにイエスさまは父なる神の愛と喜びを全身に受けた。イエスさまは神に対してはゆるぎない信頼を持ったと思います。と同時にイエスさまは父なる神への従順、どんなに困難なことがあっても従う。それは私たちを救うためです。私たちは、キリストを通して父なる神と繋がることできるのです。すべての人に救いの道を開くことになります。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。あなたもイエスさまを通して赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。それにしてもなぜ、イエスさまが罪の赦しである洗礼を受けたのかなと思います。皆さんはどうですか。それは結構なことだよ、と思いますか。確かに神学的な説明がされていますが、それでもなぜだろうか、と思わなくもない。

そこできょうは21節のみことばを一緒に考えてみたいと思います。ここにヒントがあるような気がします。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、」
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最初の「民衆がみなバプテスマを受けていた」とあります。おそらく、そこに居た、ほとんど全部の人が洗礼を受けていた。これだけの人をヨハネがひとりで洗礼を授けることは大変なことだと思います。それは、今日でも変わりません。洗礼を受けるというのは、勇気が要ります。授ける方は何でもありませんが、受ける方は緊張します。
予行演習もありません。特に全身礼となると服を着たま全身を冷たい水に浸すわけです。皆さん、「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が必要かも知れません。おそらくこのとき、長蛇の列、行列が連なりが長く延びていたと思います。それをヨハネがひとりひとり授ける、自分の番が来るまでは相当、時間がかかる。ヨハネのバプテスマの時も税人、兵士などもいたくらいですから、あらゆる人が行列していた。その行列の中にイエスさまがいたのです。皆さん、想像してみてください。しかも誰も気がつかなかったのです。

話を変えます。小田原でも12月28日から1月4日まで毎日炊き出しが行われ、石井さんや滝さんも連日、お手伝いをしました。カトリックの本田哲郎神父というの人、この方は、ホームレス支援を行っていて「釜ヶ﨑と福音」をいう本を出しています。大阪の釜ヶ﨑(あいりんちく)は日雇が多いのですが、その本の中に「炊き出しの列の中にイエスさまがいる」さし絵があります。大変印象的な絵です。つまりイエスさまは社会的に弱い立場に立たせられた人達の中に、貧しく小さくされた者の側にいるのです。しかも誰も気がついていなのです。

それは、すべての人に救いの道を開くためでした。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。
あなたも赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。そのイエスさまが、私たちと同じ罪人として受ける必要のない洗礼を受けられた。イエスさまは今も、私たちの中にいてくださるのです。そのことを心からキリストを賛美したいと思います。

 


1月6日「キリストにある霊的訓練と成長」ヨハネ3:1-15

ヨハネの福音書第3章1-17節
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。----------------------------------------
毎年1月の第1日曜日は、「年間聖句」と「テーマ」を毎年、分かち合うことになっています。すでに週報に最初のページに掲載されています。私たち聖契教団が大切にしている六つの原則の中から、一つずつ毎年取りあげています。今年で8年目になります。私たちの教会の元々のルーツは、ルターや、カルバンといった人達による宗教改革ですが、今から100年度ほど前、18-19世紀に起きたいわゆる教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動です。幼児洗礼は認めないとか、滴礼は認めないとか、黙示録にある千年王国を信じなければならない、とはいいません。いわゆるリバイバル・ムーブメントです。だから人種、民族、文化、性別、年令をこえて今、世界に広がりつつあります。だから自由教会ともいわれています。それがヨーロッパ、スエーデン、アメリカにも飛び火しました。今から70年程前にドイツ、アメリカ、スエーデンから日本に宣教師が来てつくった教会の群が各地にあります。岐阜県を中心に「同盟福音教会」岡山県「聖約教団」全国的には「福音自由教会協議会」、それと聖契教団。聖契教団は「北米カナダ福音教会」が日本で設立した団体。
英語ではカベナント教会とも呼びます。契約という意味があります。そこから聖なる契約、聖契キリスト教会ともいいます。

話しを戻しまして、聖契の教会には六つの原則があります。私なりに分かりやすい言葉でまとめますと、
一つ目は「神のことばの大切さ」
二つ目は「新しく生まれることの大切さ」
三つ目は「私たちの教会は様々な形で宣教をします。」
四つ目は「教会の交わりを大切にします。」
五つ目は「聖霊の働きを信じます。」
六つ目は「キリストにある自由を大切にします。」

きょうは二つ目の「新しく生まれることの大切さ」についてみことばを分かち合います。今年の聖句としてヨハネ3:3「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」表題として「キリストにある霊的訓練と成長」という題で6年前と同じです。イエスさまとニコデモというユダヤ人指導者との問答です。
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3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
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ユダヤ人の指導者とあります。おそらく「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会のメンバーであった可能があります。
裁判権があり、宗教的・政治的権威と持っていた。メンバーは祭司や律法学者たちです。だから学識と教養、地位と名声と権威を持っていた人であったと推測できます。
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3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
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この個所のキーワードは「知っている」という言葉です。ニコデモはイエスを知っている。なぜなら神があなたと共にいるのでなければ、あのような奇跡が起こるはずがない。自分よりも若く、無名なイエスが活躍するうわさを耳にしていました。しかし、イエスさまは
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3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
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この個所、質問のこたえになっていません。ニコデモがイエスさまに「私はあなたを知っている」といったら、こう返された。なぜ「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃたのか。私なりに考えてみました。ニコデモはイエスさまを「知っている」といいました。しかし、知っているから、その人が本物のクリスチャンであるとは言いきれません。いくら学識と教養、地位と名声があっても真実にいのちあるクリスチャンとは言いきれません。私が思うには、ニコデモの質問は、どうでもいい質問だった。イエスさまはことの本質を尋ねました。「あなたは新しく生まれましたか」英語でボーンアゲーンといいます。生まれ変わる。つまり、本当の回心の体験です。罪が赦され、聖霊によってまったく新たに生まれ変わることです。それが劇的な体験でないにしろ、本物の喜び、感謝、平安がある。
先ほど申しあげましたが、私たちの教会は教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動から生まれた教会です。
カベナント教会は、教理的には堅苦しいことはいいません。ただし、本物を求めます。
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Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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私たちカベナント教会は、「新しく生まれる」ことをなくてはならない体験としています。ちょうど母親の胎内から、生まれ出るという、闇から光に移される体験です。ヨハネ福音書の特徴ですが、光と闇のコントラスをいくつかの個所で記しています。きょうの個所もそうです。3:2「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」なぜ夜来たのでしょうか。昼間は人目につくし、プライドもあったのかもしれません。しかし、イエスさまはすでに見抜いていました。ニコデモは霊的には、夜の人、つまり闇の中の人でした。教養もあり、名声もあり、尊敬も受けていました。しかし、「新しく生まれる」という体験がなかった。だからこのあとのイエスさまとの問答はちぐはぐです。
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3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」
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なぜ、新しく生まれるという体験が必要なのか。私たちキリスト者が神のことばに従い、祈りと行いを持って実行する。
そのときに一番必要とするものは何か。それは力です。皆さん、生きることにかったるさを覚えていないでしょうか。教会へ行くのも、聖書を読むのがおっくうだ。祈ろうと思うのだけれど、気分がのらない。毎日がかったるい、くたびれて、だるい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。これらのものはすべて与えられます。」頭の中では分かっている。しかし、気力がない、喜びがない。それは力がない状態。
日本では、洗礼を受けても信仰を維持する力がなくなってしまう人は少なくありません。繰り返していいますが、神の御心を行う力がなくなっているからです。人間的な努力とかんばりできるわけではないのです。
聖書はいいます。
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使徒 1:8,しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
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それは二千年前でも今でも変わりません。聖霊が降るとき、神を愛し、隣人を自身のように愛する力が与えられます。自分はまだ「新しく生まれる」という体験がなくても求めるなら与えられます。「求めよさらば与えられん」です。それはあってもなくてもよいものではありません。なくては原則です。それは永遠のいのちにかかわることなのです。
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3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
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15節と16節でイエスさまは「永遠のいのちを持つため」とおっしゃています。だから永遠のいのちにかかわることなのです。「新しく生まれた」というのはいのちの始まりです。皆さん、「自分は新しく生まれた」という概念を持っているでしょうか。もたない人は、成長する、という概念もありません。だから霊的な成長がないのです。同じことを繰り返しているだけ。堂々巡りです。産まれたばかりの子ども、当たり前ですが、毎日が失敗だらけです。しかし、成長するに従って失敗をしてもそれを学習します。それと共に成熟していきます。それは一生涯続きます。時には失敗することもあるし、試練が与えられることもあるでしょう。しかし、堂々巡りはしません。成長し続けます。そして聖霊によってキリストの似姿に変えられていく。
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「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:13)。
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それが聖霊の働きです。繰り返しますが、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新しく生まれなければ、永遠のいのちもなければ、霊的訓練も霊的成長はありません。皆さん、自分の母親からオギャア、オギャアと生まれたときのことを覚えているでしょうか。?誰もいません。それは、後から分かるわけです。救いも必ずしも劇的な体験ではありません。しかし、神の御霊が導いて成長させてくださる。そのことをぜひ祈り求めてください。私たちは間違うことがあっても神のことばは間違えません。最終的には永遠のいのちを持つためです。2019年、自分の主導権を神の御霊に委ねて前進したいと思います。

祈ります。


12月30日の説教 「神殿での少年イエス」 ルカ2:41-52
御子、イエス・キリストを私達の世界に生まれさせてくださった恵みの神様、2018年最後の日曜日、私達をこの礼拝に呼び集めて下さったことを感謝致します。この一年間、私達の歩みを支えてくださったこと、また先週の礼拝では多くの方々と共に主イエスの誕生を祝い共に喜びの時を過ごすことが出来ました。そのことも感謝します。神様、教会に連なる全ての兄弟姉妹達と私達の心にかかっている方のために祈ります。病める方、その他、体調のすぐれない方々をなぐさめ、支え、癒しの御手をさしのべてくださいますように。また、CS礼拝の子ども達を今年も豊かに恵んでくださいました。来るべき年も守り導いて、心と身体を健やかに成長させてくださいますように。この街に住む町民の方々の上に良い新しい年が与えられますように。この礼拝のあなたご自身が親しく導いてくださって私達一同に新たな希望お与え下さいますように、希望を抱いて家路につくことが出来ますように、切に祈ります。貧しいこれらの感謝と祈りを主イエス・キリストの御名によって捧げます。
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先週生まれたばかりのみどりごは、一週間で12歳になりました。今でいう小学生6年生でしょうか。?
ところでイエスさまは、およそ30歳で公生涯に入られましたが、それまでどう過ごされたか、分かっていません。
その意味では、きょうは貴重な幼少期の様子を伺い知ることができます。当時、ユダヤの人々は、エルサレム順礼を毎年、過越の祭りにあわせて行っていました。ナザレからエルサレム神殿までおよそ100キロの旅です。
ところがそこで思いも寄らない事件が起きます。
<2:41-45>
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少年イエスは行方不明になります。
当時、順礼団を組織して旅をするわけですが、エルサレム順礼を終えて帰り道でイエスが見当たらないことに気づきます。ごったがえす過越祭で子どもが迷子になることは有り得る話しですが、
両親は、大変な思いで探しつつエルサレムまで戻ります。
<2:46-48>
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イエスはエルサレム神殿にいました。そして教師達、つまり祭司や律法学者のまん中に坐って討論していた。
この時、人達は「イエスの知恵に驚いた」とあります。この時すでに普通の子どもとは思えないような知恵があった。
それはわきに置いておいて、両親は三日間も探したわけで怒り心頭。ところが、意外な言葉が返ってきます。
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2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
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なぞめいた言葉です。ミステリーな、なぞ解きみたいな言葉です。
誰が聞いても拍子抜けしてしまう。皆さん、この言葉の意味、おわかりでしょうか?私も分かりません。
ご両親は「親族や知人の中」にいると思って捜しまわったが、イエスは「自分の父の家にいる」と言われた。
どんな意味か、さっぱり分かりません。

ただしヒントがあるとすれば、二つの言葉です。ひとつは41節の「過越」という言葉です。エジプトで奴隷であったユダヤ人の先祖が、モーセに率いられてエジプトを脱出したとき、神はエジプト中の初子(ういご)を殺したが,小羊の血を入口に塗ったヘブル人の家だけは過ぎ越したという出来事です。そしてキリストは過越の祭りで十字架にかかります。キリストの十字架と関係があります。二つ目は46節の「三日の後」ということばです。これはキリストの復活用語です。
キリストは三日目に死人のうちより復活した。つまり「自分の父の家にいる」という言葉に中に十字架と復活が隠されているのかもしれません。しかし、私はうまく説明できません。

50節、両親もイエスの話された言葉の意味が分からなかった、ということです。
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2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
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きょうのポイントは「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ということばです。新共同訳では「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」こちらの訳が良いかも知れません。結論から言いますと、ここが母マリヤの偉いところだと思います。イエスの不可解な行動があって、自分達もそれに三日間振りまわされた。大変だった。ここで母親として、息子にガツンということもできたと思います。「お前は、何を言っているのだ。私たちは心配したんだよ」と言うこともできた。しかし、心に納めたのです。腑に落ちないまま心に納めたのです。ここでもう一度話しを整理してみましょう。三日間、「親族や知人の中」を捜しまわった。どの親でも例外なくそうしたと思います。これは当たり前です。だれが考えても当然そう思います。しかし、イエスは「わたしは父の家に居る」と言った。

つまり私たちの当たり前は神の当たり前、とは限らない。私の当然が、神の当然だとは限らない。私たちがこうあるべきだと思うことが、神も同じように思うとは限らない。なぜでしょうか。人間に限界があります。なぜなら神のご意志を、イエスさまのすべてを理解できるわけではない。信仰とは納得することではありません。

母マリヤはその日の出来事を、そのまま心に納めたのです。開かないドアを無理にこじ開けようとしなかった。イエスのおっしゃった意味が分からなくても、胸の中に納め、暖め続けたのです。その時分からなくても、時間をかけることによって聖書の言葉が分かることもあります。言い換えれば、あわてず、騒がず神にゆだねたということです。
聖書は「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
私たちは限界があります。しかし、ゆだねることによって乗りこえることができるのです。神はあなたが「心に納めたこと」を覚えていて下さり、時が来れば必ずことをなしてくださるのです。マリアの讃歌の中に(ルカ 1:45)「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」2018年も明日で終わります。私たち個人のことであってもも、教会のことであっても様々なことがありました。神さまはそのことを覚えていて下さる。2019年は「私も父の家にいる」とひとりひとりが告白できる年になると信じています。

祈ります。


12月23日の説教 ルカ2:1-20
ひとり子をお与えになったほどに、私共を愛された全能の神様、きょう降誕日を迎えました。そして皆さんと共にこの礼拝に連なることができました。どうか、一人、一人を祝福してくださいますように。あなたは、まさに、私たちに救い主を送ってくださり、主イエスにおいて新しい天と新しい地を、新しい心と新しい願いを、新しい希望を全ての人に送ってくださいます。それゆえに祈ります。仮設にいる人達、路上で生活しなければならない人達、少年院や拘置所ににいる人達、また児童相談所に預けられている子ども達。戦争のために難民となった人達、饑餓の中にいる子ども達、あるいは突然の事件や事故のために苦しんでいる人たち、また様々な差別や偏見の中にいる人たちを助けてください。どうか、いと高きところでは栄光があなたにあり、地上では平和が御心にかなう人々にありますように。私たちにあなたと共に生きる喜び、また多くの隣人、兄弟姉妹と共に生きる喜びを与えてください。これから御ことばを分かち合いますが、話す言葉と聞く耳をお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストによって祈ります。
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クリスマス、おめでとうございます。松田町もこの時期、子どもの館にイルミネーションが輝いて夜は、大勢の人が訪れています。クリスマスは、ヨーロッパが本場だと思いますが、サウジアラビア、イランなどムスリムの人達、インドのンドゥーの人達もイベントとして楽しむようです。なぜ、国や人種や宗教を超えて楽しむのか。私も正確なところは分かりませんが、何かホットする、おだやかな気持になれるのだと思います。ご存知のようにクリスマスの原点は聖書にあります。聖書が教えるクリスマスは何なのかを一緒に読みたいと思います。

2:1-20を司式者が読んでくださいましたが、
<1節から3節までをもう一度読みます。>
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1節の全世界というのはローマ帝国のことで、「住民登録せよという勅令」は皇帝アウグストが出した命令です。
アウグストは紀元前27年に在位しています。当時のユダヤはローマ帝国の支配下、今でいう植民地です。何のための住民登録なのか、それは税金を取るためだったといわれています。当時は戦国時代、絶えず隣国と戦争をしていました。そのため税集、それを軍事費に使うためです。当時、皇帝アウグストは世界一の絶大な権力者で、人々はアウグストを神格化し、礼賛していました。そして軍事力、経済力にものを言わせて支配していました。
ユダヤの人々は政治的にも、経済的にも、宗教的にも虐げられていました。
<4-5節を読みます>
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住民登録のために、マリヤとヨセフが、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に行きました。ナザレからベツレヘムまで140キロです。お腹の子どもにとっては危険な旅でした。
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<6-7節を読みます>
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ベツレヘムに着くと宿を探しましたが、宿屋はどこもいっぱい。理由は分かりません。同じように住民登録の人達がすでに泊まっていたのかも知れません。いずれにせよ、わざわざ「彼らのいる場所がなかった」と記しています。子どもが産まれるというのに「いる場所がない」とは、実に寂しい、辛い話しです。そして、「2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。」とあります。「飼い葉おけ」とは牛とか馬が草を食べるときの桶です。おそらく家畜小屋です。暗くて不衛生な場所だったと思います。
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2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
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羊飼い達が出てきます。「羊飼」は古代社会では最下層、もっともレベルの低い人達でした。まともな人間として扱われませんでした。ですから裁判でも証言することがゆるされなかった。
<2:9-14>を読みます。
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9節で「主の御使い」が登場します。聖書では重要場面では必ず神の御使い、天使が登場します。
ここがクリスマスのクライマックスです。13節では「その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。」この場面、天の軍勢による大合で讃美歌が歌われ神の栄光が照らす。実に絵画的です。この時期、毎年、ベートーベンの第9が歌われます。歓喜の歌声です。その他にもバッハのクリスマス・オラトリオ、ヘンデルのメサイヤ、シューベルトのアヴェマリア。あるいは数多くの讃美歌が生まれました。古今東西、さまざまなクリスマス・ソングが歌われています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」恐れではなく喜びです。あなたも喜んでいいんですよというメッセージです。
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話しを戻しますが。世界中で人種や宗教を超えてクリスマスが楽しまれます。なぜでしょうか。?
本当は皆、心の底では、おだやかに、平和に、過ごしたいと思っています。軍事力や経済力で人を支配したり、支配されたくないのが本音です。しかし、現実は力とかお金といってもよいかも知れません。皇帝アウグストのような人が居るのだというのではなく、それは私たちの中にもあります。自己中心な思いです。自分さえ良ければという思いです。そのことを聖書は「罪」ということばで言い表しています。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そして三日目に甦って下さいました。ここに神の愛が示されました。そして今も生きておられます。私たちは祈ることのよってキリストと繋がることができる。そこに赦しがあります。永遠の命があります。これが私たちに届いた喜びの福音、喜びの知らせです。そのためにキリストは生まれて下さいました。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と記しています。飛躍しますが、人によっては職場や学校、家庭などで、居場所がないと感じる人は少なくない。そこには孤独があります。「相手から関心を向けられていない」という感覚です。
イエスさまは、どんなに低く貧しい境遇に置かれても、その人の気持ちが分かることではないでしょうか。?
私たちの教会も今、改修計画があって来年はチャペルのとなりをかふぇにして「居場所づくり」をする計画です。
クリスマスは、私たちを罪から救い、新しいいのちを与え、神をほめたたえ、隣人に仕える生活を与えて下さるキリストを、私の暗闇の心お迎えするのが本当のクリスマスです。皆さんの上に、クリスマスの祝福がありますように。

祈ります。


12月16日「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(ルカ3:7-18)

先週の続きになります。
3章7節で「それで」とありますが、3節で「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」。
「それで」、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と勧めています。そのために具体的な行いから、クリスマスを迎える心構えを教えています。きょうの個所は、ヨハネの歯に衣[きぬ]着せぬ裁きの言葉が随処で響きわたって切迫感、緊迫感があります。たとえば、
7節「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
9節「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
17節「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
いずれも裁きの言葉です。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。
神の裁きが始まりますよ。裁くとは、あなた自身の善悪についての神のご判断です。
今のままで良いのですか。?
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
「まむしのすえ」とは神の反逆者。誰であっても神の怒りから逃れることはできません。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、
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3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
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8節の「実を結ぶ」がポイントになっています。
皆さんもご存知ですが、聖書では「実を結ぶ例え」が数多く出てきます。
ことばでは調子良く「ハイ、ハイ、分かりましたとか、そうします。」と言います。
しかし、結果が伴うとは限りません。
実を結ぶとは、時間がかかります。土を耕し、種を撒いて、水をやり、成長して実がなる。
時には何年もかかります。イエスさまもおっしゃっています。
「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
「実によって彼らを見分けることができるのです。」
その人が真実かどうか、実を見ると分かります。
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。」
ユダヤ人は民族意識が非常に強いと言われています。それは旧約聖書に民族の歴史を持っているからで「先祖はアブラハムだ」。自分達は神に選ばれたというプライドです。
しかし、神の前では通用しません。「斧はすでに木の根元に置かれています。」
「悔い改めにふさわしい実」を結んでいるか、いないかのです。それを聞いた群衆は身震いします。
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3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
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すがるような思いで「どうすればよいのか」と尋ねました。ヨハネが「この荒野で40日間の祈りと断食だ」といえば、皆そうしたかも知れません。難行苦行です。しかし、そう言わなかった。
拍子抜けするほど単純で平凡なことを言いました。
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3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
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特に自分よりも困っている人に「着るもの」や「食べる物」を差しあげなさい。
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3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
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取税人は職権を利用し、お金を余計にかすめ取ることが多かった。
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3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
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兵士も給料が少なかったので、時には暴力やおどしでお金を得ていた。ヨハネの言ったことはきわめて常識的な教えで自己中心的な生き方ではなく、隣人を大切にすることです。イエスさまもおっしゃた、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。またヨハネ自身も謙そんな人でした。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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そのことを察知してたので、イエスさまを紹介します。ここがクライマックスです。
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3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
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「聖霊と火のバプテスマ」は解釈が難しいのです。やがて起こるペンテコステの救いなのか、単なる清めなのか。
あるいは世の終りの刑罰なのか。私もうまく説明できません。いずれにしろ聖霊の働きがなければ、罪を悔いあらためてイエスさまを信じることはできません。火というのは罪の汚れを焼きつくすことかもしれません。
キリストを信じて救われるというのは、心と身体と魂の救い。全人格的な救い。完全な清めと無条件の赦し。永遠のいのちが保証される。きょうはヨハネの裁きの言葉が語られました。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。きょうのポイントとして、神の裁きが始まりますよ。しかし、同時に恵みの時でもあります。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、そこに恵み、喜びがあります。
あなたはどちらを選択するですか、裁きか、恵みか。
最後の18節はルカ自身の言葉です。ルカは悔い改め、恵みとして受け取ります。
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3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
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福音という言葉が入っています。「福音」とは喜びのおとずれです。
クリスマス、それは喜びの到来。喜びそのものが、やって来る。
暗い顔をしなくていい。生きていてよかったね。あなたも喜べるんだ。喜んでいいんだ。
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ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
   4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
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きょうの個所は、ヨハネの裁きの言葉が随処にある。しかし、神に向かって方向転換するなら大きな喜びを受け取ることができます。あなたはどちらを選択するですか、裁きか、喜びか。

祈ります。


12月9日 「あらゆる人が神の救いを見る」ルカ3:1-11

バプテスマのヨハネの登場です。イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。旧約時代の最大の預言者であり、キリストを新約に招き入れる人として称賛しています。実際にヨハネの登場以来、福音の扉が開かれました。聖書は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と語っています。こうしてヨハネは「来たるべきエリヤ」として旧約と新約の橋渡しをする人となりました。
1-2節が、ルカはヨハネの登場を興味深く語っています。
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3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
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神のことばが下ったというのですが、1-2節には私たちもよく知っている名前が出てきます。
ポンテオ・ピラト、ユダヤの総督ヘロデ、大祭司アンナス、カヤパ。
エルサレムで豪勢に暮らしていた時の権力者、国の中枢にいた政治家、神殿の宗教指導者達です。
そして権力による支配と維持を追求していた人達です。
神のことばに導かれたヨハネは何を語ったのか。?
3節、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」とあります。
罪とは「神の律法に背く」ことですが、「的外れ」「すじ違い」のことです。
要するに頓珍漢な生き方です。そこからの「悔い改め」は「自分の心を変える」という意味です。
心を変えなければ、キリストを救い主として迎入れることは不可能です。
自分を変えるとは、なにか小手先で手直しすることではありません。
生き方の根本的な方向転換です。ヨハネは預言者イザヤの言葉を引用します。
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3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
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キリストが私たちのただ中にやって来られる。だから、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と。しかし、私たちの心の中は我欲でいっぱいです。主の道を用意しなさいと言われても、3節にあるようにまるで「デコボコ道」です。まるで谷や山のようになっている。しかし、罪を悔いあらためて洗礼を受けるときに、デコボコ道は平らになって、キリストをお迎えできるようになるというのです。
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3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
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きょうはクリスマスを前に、キリストをお迎えするには、具体的にどうしたらよいのかということですが、
パウロの手紙ですが、ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
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1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。
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パウロの祈りですが、私たちの祈りでもあります。ポイントは、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」「真の知識と識別力」が必要だというのです。どこから与えられるのでしょうか。それは聖書のことばです。神のことばです。ルカ福音書の個所でも、神のことばが下ったのはピラトでも、ヘロデでも、アンナスでも、カヤパでもないヨハネに下った。そのときヨハネは正しい言葉が与えられ、正しい判断ができたのです。今、情報があふれています。そして多くの人が必要のない知識、情報に振り回されてます。
愛が豊かになっていくためにはどうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要になります。そうでなければ、真にすぐれたものを見わけることができません。単なるお人好しとか、同情心があるとかはダメです。
どうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要です。神さま、私に真の知識とあらゆる識別力をお与えくださいと祈る必要があります。
このときに注意することは、「純真で非難されるところがなく」とパウロは言っています。純真とは謙遜ということです。人は知識や識別力を持つとき、思いあがるのです。
なぜ、神のことばがピラトやヘロデ、アンナスやカヤパに下らなかったのか。
それは「純真」でなかったからです。彼らは、権力による支配と維持を追求していたからです。
私たちに「真の知識とあらゆる識別力」を与えてくれるのは、とりもなおさず聖書です。それが神の国の価値観になります。このアドベントの期間、「真の知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになるように祈りたいと思います。

祈ります。


12月2日 「人の子の前に立つことができるように」ルカ21:25-36

21:25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
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聖書日課C年はルカ年になります。ルカ福音書を中心に聖書を読んでいくことになります。同時にアドベントです。
きょうの御ことばは、受難を前にしたイエスさまの言葉です。この個所は、マルコ福音書13章1節から37節とほとんど同じですが、ルカ福音書は、皆さんもご存知ですが、心理面が生き生きと書かれているのが特徴です。

きょうの個所ですが、最終的にキリストが来られる時にどのようなことが起こるのか。
25節では「太陽、月、星に前兆が現れる」、また「海と波が荒れどよめく」
26節では「恐ろしさのあまり気を失う」

具体的になかなか想像できませんが、台風・地震・津波、洪水が起こるというレベルではありません。たとえば地球は自転しながら太陽の周りを回っている。少し狂っただけで大変なことになると言われています。巨大ないん石が地球に衝突するとか。経験したこともない恐怖に陥る。

27節、 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これは象徴的な言い方ですが、イエスさまがベツレヘムお生まれになりました。宿屋には部屋がなくて家畜小屋という劣悪なところでした。それを見守ったのは羊飼という社会の片隅にいた人達でした。それがファンタジックな話しになっています。しかし、それがキリストの本当の姿ではありません。今度は神の栄光を帯びて、万軍の主として大軍隊を率いて来られる。それは審判者です。まさに主の主、王の王、キングオブキングです。全世界の誰もが分かる形でキリストの到来を知るというのです。しかも、ある日、突然到来します。まさか、そんなことがあるもんか。たかをくくっているところに突然来ます。

34節 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

マタイ福音書でイエスさまは「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして大洪水が来てしまう。まさか、と言って人々はノアを馬鹿にし、あざわらっていました。またこうもおっしゃいました。「それはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 婚礼の祝宴があるので『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言うのですが、最後は「私はあなたがたを知りません。」と警告をしている。
たかをくくっていたのです。

34節、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」
35節、「その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。」

私たちはこういうところを読むと、恐くなります。不安になります。しかし、繰り返し申しあげます。先週も言いましたが、終末は、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。

ローマ 10:9-13「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
だからクリスチャンにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。信仰者にとって救いの完成の時となる。

皆さん、その準備はできていますか。?つまり自分の内に明確な救いの判断基準を持つことです。だからまだ洗礼を受けていない人はぜひ申し出て下さい。一方では、自分は洗礼も受けて救われた。あとは呑気に生きていけばよいのだ、というものではないのです。原罪のまったき赦し、永遠の命、永遠の救いを受け取っていますが、救いが完成したわけではないのです。

ではどうしたらよいのか、それは36節です。きょうの最重要聖句です。

36節「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

いつも、「いつも油断せずに祈っていなさい」備えあれば憂いなしともいいます。備えとは「油断せずに祈ることです」
これ以外にありません。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)
「人の子の前に立つ」がキーワードです。言い換えると神の御前になるわけです。いつでも神の前に立つことができるように祈る人でありたいと思います。具体的にどう祈ったらよいのか。?

Ⅰテサロニケ3:13「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」「聖くなければ」あるいは」「責められるところがあれば」当然、悔いあらためなければならない。私は祈らなくてもいいのだ、という人は誰ひとりいません。いずれにしろ油断せずに祈り続けることです。ぜひ祈りつつ、クリスマスを迎えたいと思います。

祈ります。


2018年11月25日 「わたしのことばは滅びない」マルコ13:24-31

13:24,だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 13:25,星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 13:26,そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27,そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 13:28,いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 13:29,そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 13:30,まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

きょうは聖霊降臨節の最後の日ですが、聖書日課B年の大みかです。来週から新しい年、アドベントが始まります。きょうの聖書個所は「終末」がテーマになっています。終末という言葉は、「この世の終り」、「民全体にくだされる最後の審判」、「義人の選別」。単なる個人ではなく民全体の最終的な裁きの時という意味です。

24節「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
25節「星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」

天変地異がおき、あらゆるものが壊滅、崩壊する。エレミヤ書、ダニエル書、アモス書などに記されています。いずれも旧約的、また黙示録的な言葉が語られています。それは新約聖書にも引き継がれます。マタイ福音書では、羊飼いが羊と山羊とをより分けるように。裁きが始まる。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)

しかし、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。私たちにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。その象徴的な預言がキリストの再臨です。信仰者にとって救いの完成の時となる。現在、私たちは、「主は必ず来られるという約束の言葉」と、「いつ来るか分からない」という言葉の間にいます。

きょうのポイントの御ことばは
マルコ 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

すべてのものはすたれて滅亡し、消えて亡くなります。しかし、主イエスの言葉は滅びない。滅びないということは、変わらないということです。今は、変化がめまぐるしい時代です。まさに「光陰矢の如し」です。時や変化は想像を超える早さと規模で繰り返されています。50年前、携帯電話など考えられませんでした。電車に乗るとほとんどの人がスマートフォンを操作している。新聞や本を読んでいる人はいません。その電車に乗るのも切符を買う人が少なくなりました。スイカとかパスモで、いわゆる電子決済をする。更にAI(人工知能)という技術が出てきました。また近い将来、産業用ロボットがウェイターや介護士として活躍すると言われています。バスやタクシーといった車も自動で運転する。それだけではない。生活スタイルも大きく変化している。若い人は結婚しない、車を買わない、家を買わない。松田にもありますが、ゴルフ場は閑古鳥が鳴いている。


しかし、変わらないものもあります。私は、茅ヶ崎の駅から歩いて10分くらいの所に「キリスト福音宣教会」という奉仕していた事務所がありました。この間、30年振りくらいで茅ヶ崎に行きました。駅前は見る影もありません。ところが私がカセットテープをよく買った小さな電気屋さんがありました。そこは変わっていませんでした。本当に懐かしい気持になりました。と同時に何かホットしました。何もかもが変わっていく世界の中にあって、変わらないものを求める傾向が人にはあるかもしれません。確かに、社会生活やテクノロジー、或いは政治形態も、どんどん変わっていくでしょう。また、変わらなければならないもの、変えなければならないものも沢山あります。しかし、変わらない拠り所を持っていることは、大切なことです。私達はどこに、その変わらないものを見つけることが出来るでしょうか。

主イエスは、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われました。主イエスは、何もかも変わる世にあって、変わらないのは、神の言葉だと語られました。
神は永遠に変わりません。その言葉も変わりません。それは「神の愛」、救いの約束です。神のみことばは決して反故になることはありません。

先週、Yさんを訪問しました。ぜん息で退院したばかりで鼻から酸素吸入していました。昔、小田原で路上生活をしていて施設を転々として、秦野にいますが、すこぶる元気でした。枕もとに聖書があって「毎日必ず読む」「聖書を読まなければ自分が狂ってしまう」と言っていました。皆さんもご存知だと思いますが、先週は世界的に大きな自動車会社の会長さんが突然逮捕されました。あるいはこの銀行は大丈夫だ、しかし、その銀行がつぶれることさえありえます。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。この世界は過ぎ行きます。しかし、神とその御言葉は永遠なのです。永遠に存在する神の言葉を聴く、信仰をもって聴きとる、信じて聴いて従う、その人は、どうなるでしょうか。その人も又、決して滅びないのです。永遠に生きるのです。「わたしのことばは決して滅びない」この真理を心に刻んでください。

祈ります。