牧師の日曜メッセージ

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3月17日の説教  「国籍は天に」ピリピ3:17-4:1

ピリピ 3:17,兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18,というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19,彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20,けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21,キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。4:1,そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

パウロがエペソの獄中でピリピの人達に宛てた手紙です。17節、「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と記しています。「キリストを見ならう」ならわかりますが、自分を見ならってほしいとは中々言えません。傲慢な言葉に聞こえますが、パウロの生き方、あゆみ方、戦い方を語っているのです。常に前向き、建設的、肯定的でした。パウロはこう言っています。
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ピリピ 3:12,私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13,兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14,キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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働きにおいては、「地の果てまで」福音を届けるという目標。内においては「もっとキリストを知ること」を目標に全力で走り続けた人です。これはパウロ一人ではなく、みんなでゴールを目指して走り出しましょうというのです。なぜそのような言い方をしたのか。?
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3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
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「しばしば」、幾度も幾度も繰り返し言ってきた。そして「今も涙をもって言う」。そのことを考えるとパウロは悲しくて悲しくてたまらない。それは「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」具体的にどういう人なのか記されていませんが、十字架とは愛と赦しの象徴です。その十字架の愛と赦しに敵対する生き方とは、窮極的には自己中心的な生き方。そういう人達が多くいる。分かりやすく言いますと自分を神とすることです。そこに祈りがあるわけでも聖書のことばがあるわけでもない。神への賛美あるわけでもない、礼拝があるわけでもない。自分の思いだけでのみに従って歩む。自分がうまくやれば、それでいい。しかも本人がそれを自覚していない。知っていただきたいのは、全世界のすべてのもの、宇宙をも含めて、そして人間もまた、すべては神によって創造された被造物、造られたものであるということ。神以上のものでもなく、神にはなりえないということ、ただお一人、天地万物と人間を創造された造り主なる神のみが、唯一の神です。わたしたちは主の日の礼拝のたびごとに、神のみ言葉を聞き、神に祈り、神を賛美し、神との霊的な交わりを与えられています。主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされて、神と隣人とに仕えていく者とされ、そのようにして神の像を回復されるのです。その十字架に背を向ける。それは、「キリストの十字架の敵」である「最後は滅び」です。
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3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。----------------------------------------
「私たちの国籍は天にあります。」私達も日本国民として、或いは小田原、松田町、或いは神奈川県民として、それぞれの所属意識をもっています。だから地域社会の一員として生き、そのために地域に貢献することは大切ですが、同時にクリスチャンとして天に国籍を持ちます。
「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」再臨と言いますが、天から再び来り給う主イエス・キリストをひたすらに待ち望むのです。そして、もっと素晴らしいことは、「私たちの卑しいからだ」、やがて、老いて死んで朽ちていくからだです。そのからだをキリストの似姿に変えてくださることです。先日は私たちの復活はどのようになるのか、聖書から学びましたが、「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」外側の姿も栄光に満ちたものに変えられますが、それ以上に、内側の品性も、キリストらしく変えて下さる。それは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって」といっています。
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4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
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だからふらふらする必要はありません。しっかりと天国を目指して、この世の人生を全うしましょう。 皆さんは、すでに天国の市民に登録しましたか。住民登録が未だの方は、天国の戸籍係であるイエスさまを信じ、その自分の名前を登録しましょう。すでに登録済みの方は、天に目を向けながら、しかし、足元もしっかり固めながら、今週の歩みを全うしましょう。  

お祈りを致します。


3月10日四旬節第1主日 「誰でも救われる」ローマ10:8-13
パウロは「では、どう言っていますか。」で始まります。
「では」という接続詞は、9章の13節から始まっている「行いによる義か、信仰による義か」についてです。
その結論が10章8節からの説明です。
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10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
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この鉤カッコの聖句、申命記30章14節の御ことばです。
ところが実際の申命記 30:14は「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」聞いて分かるとおりパウロは「あなたはこれを行なうことができる。」ということばを引用しなかったのです。なぜ引用しなかったのか?
推測ですが、おそらく「信仰による義」ということを言いたかったわけです。つまり「行いによって救われるわけではなく信仰によって救われる」これを言いたかった。
そして「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのです。
大変味わい深い言葉です。この御ことばは、救いの御ことばです。
その救いの言葉は「あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのです。
今皆さんが手に持っている聖書にも書かれています。
そして毎週、日曜日、聖書のことばが読まれ、朗読され、救いの言葉が語られています。
あるいは讃美歌の歌詞の中にもあります。そうして、神が人となって来て下さった。
「あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのは厳密に言うとあなたの中にあるということです。
だから、だれでも救われます。難しいことは何一つありません。
世の中にはいろいろな宗教があります。しかし、救いはあんがい不公平です。さとりを開いた人だけが救われる、一生懸命に努力や修行をした人だけが救われる。つまり人間の努力次第で与えられる救いが変わってしまう。
あなた次第ですよ、というのです。
しかし、私たちの神は「救いのみことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」
救いはどなたにも開かれている。
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10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
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口で告白し、心で信じて、救われる。イエスさまは私の主、「私の唯一の神さま」です。
そして「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
口で告白し、心で信じて、救われる。口だけではダメです。「イエスさまは私の主です。」誰でも言えます。ということは、口先だけで中味のない言葉、形式的な言葉になってしまう可能性がある。特に日本人は本音と建て前を使い分けますから要注意です。
しかし、逆にこういう人も時々います。
私は、口には決して出しませんが、本当は心の中で信じているのですよ。しかし、私は口には出しません。
それでは本当に何を信じているのか、分かりませんね。抽象的な話しで具体性に欠けます。
だから口だけではダメなんです。また心の中だけでもダメです。
心の思いと口の言葉を一致させることです。
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「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
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あなたは本当に救われているでしょうか。?実際はどうなのでしょうか。?
救われる、という条件を満たしているでしょうか。?
皆さん、今、あなたの口でイエスを主と告白できるでしょうか。?
そして、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じているでしょうか?
それはいのちにかかわることなのです。
ぼそぼそと言うのではなく、誰にでも聞こえる声で、はっきりと「イエスさまは私の主です」と声に出すことができるでしょうか。今できるでしょうか。
また心で「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じている」でしょうか。
聖書が教える救いはシンプルです。何もする必要はありません。
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10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
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告白とは、自分の信仰を公にすることです。皆の前で明らかにすることです。
それは恥ずかしい、人から何と思われるか分からない。
イエスさまは「わたしを人の前で知らないと言う者は、わたしもあなたを神の御使いたちの前で知らない」と言われます。あなたも知らないなら、わたしも知らない。
パウロは「私は福音を恥じとしない」と言いました。
「10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ぜひ暗誦して下さい。
ローマ人への手紙10章10節、ローマ10の10です。ぜひ今週、毎朝、起床したならこの聖句を繰り返して下さい。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
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10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
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皆さんが行きづまったとき、もうダメかなと思ったときにこの聖句を思い出して下さい。
そこに必ず希望が見えてきます。
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10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
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福音は国籍、民族、人種、文化を超えます。すべての人の主です。
すべての人に同じ条件で救いが提供されています。だた呼び求めればいいのです。
自分の無力さを自覚し、全能である主を呼び求めればいいのです。必ず応えてくださる。
救いのための条件はただ一つ、キリストを主と仰ぐことだけです。
修行も、訓練も、予備知識も、まったく必要ありません。


10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
繰り返しますが、例外はありません。あなたも救われます。

祈ります。

3月3日「死は勝利に飲まれたた」Ⅰコリント15:51-58 

きょうが顕現節の最後、来週から四旬節に入りますが、きょうの個所、イースターのメッセージ個所です。顕現節になぜこの個所が選ばれているのか。「顕現」は「はっきりと姿が現れること」。キリストのよみがえり、私たちのよみがえりも顕現になる。今日のテーマは復活です。第1コリント15章全体は「キリストの復活と希望」が記されています。それを象徴する言葉が54節「死は勝利にのまれた。」「死」は人類最大で最後の敵といってよいと思います。聖書は復活を約束していますが、復活がなければキリスト教も教会も存在しなかったと思います。キリストは私たちの罪のために死なれ同時に復活した。だから
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15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
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「奥義」神の啓示によってのみ知り得る霊的真理。神に従順な人には明らかにされるが、従順ではない人には覆いがかかってしまう。その奥義とはキリストはよみがえったように私たちもよみがえるということです。このことを聖書は福音と言っています。良い知らせです。「福音」はキリスト教用語ではありません。株でもうかったとか、病気が完治する薬、飛びぬけて便利な物等にも使われます。しかし、これほどの福音、良きおとずれはこの世に存在しません。教会には他の宗教のように拝むもの、銅像、木像とか仏像のようなものはありません。神の御ことば、聖書を信仰の手掛りとして福音、良きおとずれを信じる。これが救いです。
その福音とは15:1-2
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1コリント 15:1-2,兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
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聖書に記されている福音を信じる。これが救いです。更にこうも言っています。
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1コリント 15:3,私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4,また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
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最も大切なことととパウロは言っています。福音の中の福音、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、そして復活して下さった。この福音を信じるなら、どんな人でも救われます。これが福音です。
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15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。----------------------------------------
「終りのラッパ」は象徴的な表現で、ヨハネ黙示録に登場する終末を告げる七人の御使いのトランペット奏者が吹くラッパです。このとき私たちはたちまち変えられる。私たちがよみがえるときにどんな身体に変えられるのか。ここだけではよく分かりません。皆さん、どんなふうに考えているでしょうか。以前「千の風になって」という歌がはやりました。「お墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません。自分は千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」という素敵な詩です。確かに慰められる詩ですが、間違いです。霊魂は肉体を離れて存続するというのではありません。それだと幽霊のような存在です。聖書は、私たちはイエスさまと同じように復活をすると記されています。このことを「復活体」とも言います。イエスさまも復活したときに弟子達はビックリしました。
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ルカ 24:38,すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39,わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
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トマスは信じられなかった。復活しても十字架の傷跡があった。肉体は滅びない霊の肉体として引き継ぎます。といって物理的な法則には縛られません。閉めきった部屋を壁や扉をすり抜けて出入りしました。エマオへ行く途中で消えてしまったかと思うとガリラヤ湖畔に現れる。そして焼き魚を食べている。と言って食物がなければ生存できないような体ではない。復活してもイエスさまのご人格、品性は受け継いでいました。個性や性格が変わるわけではないのです。
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15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
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復活は歴史の事実です。皆さんの中には理性的には信じられないと考えるかもしれません。聖書は理性を超えた書物ですから、復活を証明することは難しいかも知れません。全世界のクリスチャンは20億以上、人口の3割、キリストの復活の証拠でもあります。人生はせいぜい80年とか90年、長くて100年、永遠に比べたら束の間。これほどの福音は他にありません。神は今も生きて働いています。
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15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
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これほどの福音はありません。感謝以外にありません。
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15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
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私たちは何を生きがいに生きているのでしょう。この地上のことしか知らないなら「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と刹那的なものです。しかし、キリストの復活によって、罪許され、神の子として、永遠のいのちが与えられ、永遠の世界が約束されていることを知っているなら、「いつも主のわざに励む」人生へと私たちを導いてくれるのです。私たちは神によって与えられた役割があります。それを最善のものと信じて生きていくことができます。神は、そのときに無駄な奉仕、無意味な仕事をお与えになりません。人の目には無駄に見えても、そこには意味がある。

58節は、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と締め括ります。

お祈りを致します。

2月24日の説教「あなたの敵を愛しなさい」ルカ6:27-38
あなたは私たちを引きあげるためにご自分を低くし、へりくだられました。あなたは私たちが豊かになるために、貧しくなりました。あなたは私たちを永遠のいのちに預からせるために私たちと同じになりました。私たちは誰ひとりとしてまったく受ける資格のない者ですが、主イエスがそれをなしてくださいました。それゆえにあなたを誉めたたえます。それゆえに私たちを福音の宣教者として用いてくださいますように。日本のために祈ります。本日、沖縄米軍普天間基地移設に伴う埋め立ての賛否を問う県民投票が始まっています。戦後、基地問題で大きな痛みを負ってきました。どうか一日も早く基地のない沖縄を取りもどすことができますように。教会に連なる全ての兄弟姉妹達のために祈ります。どうかお一人びとりを顧みお守り下さいますように。お年を召されて礼拝に出ることが難しくなった方々にはあなたがいつもそばにいて支えてくださいますように。また会堂の改修が進んでいますが、御心にかなった改修ができますように。すべてを導き必要を満たして下さい。今週もそしてこの街に住む全ての市民の方々の上にあなたの恵みが豊かにありますように。今から語られる御ことばに聞く耳をお与え下さい。
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ルカ6:27-38
6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。6:31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
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先週の続きになります。イエスさまが山から下りて人々に語った教えです。

6:27から「あなたの敵を愛しなさい。」
6:28「あなたをのろう者を祝福しなさい。」
6:29「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

イエスさまは、私たちにどんどん難しいことを要求をしてきます。
聞く方は困惑してしまいます。
象徴的な言葉が「敵を愛しなさい」が27節、35節と2回出てきます。

あの人が好きではない、馬が合わない、というレベルだったらまだしも、その人に苦しめられ、傷つけられた。
しかも、何の反省もしていない人を赦すことは、私たちには不可能です。
百歩譲って「敵を愛することは良いことだ」と頭で考えても実際に行動に出ることは至難の業です。

それからこうもおっしゃっています。
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6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
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罪人達ですら、という言葉、33節、34節にも出てきます。
世の中には確かに悪い人もいます。そういう人達ですら「自分を愛する者を愛している」。
人はだいたい自分は善人だと考えています。
ところが神の目から見るならば、人は五十歩百歩、似たり寄ったりだというのです。
クリスチャンはその程度の愛ではなく、もっと踏みこんだ愛が必要だというのです。

そして
★35節でふたたび、「自分の敵を愛しなさい。」と命令しています。
やはり、どう考えても不可能なことです。
私も考えてみました。
なぜか、それは私たちには「敵を無条件で愛する」という、心、良心がないのです。
そのように造られていないのです。

★ではどこにあるのか。その愛は神の中にあります。三位一体の神の中にあるわけです。
ですから、この神と無縁で、神など全く信じない世界に居る限り、それを行動に結び付けるのは不可能です。
頭でわかっていても、キリストと結び付かない限り実現しません。

そこできょうの聖句
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6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。 
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「あわれみ」という言葉がふたつあります。
しかし、日本語で「あわれみ」ということばあまり馴染みがありません。
翻訳の問題もあります。日常会話では好んで使う言葉ではありません。
「あわれむ」というと気の毒な人を上から目線で見るようなことばです。
よい意味で使われることはありません。

ところが聖書では重要な言葉として頻繁に出てきます。
原語では「はらわたがちぎれるほど、悲しくつらいこと」という意味があります。
英語では「コンパッション」、もともとはラテン語で「共に苦しむ」とか「熱情をもって事に当たる」という意味もあります。かなり前に「パッション」というキリストが処刑されるまでの12時間を描いた映画が話題になりました。
日本語の「あわれみ」とはかなりニュアンスが異なります。
そして「あわれみ」を「かわいそう」と訳している個所があります。

ルカ福音書10章で良きサマリヤ人が強盗に襲われた人を助ける場面で使われています。
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ルカ 10:33,ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
ルカ 10:34,近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
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皆さんよくご存知の個所です。
それから放蕩息子が帰ってくる場面で
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ルカ 15:20,こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
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ここでも「かわいそう」と言っています。憐れむとは「かわいそう」に思うことです。
ひとことで言いますと「痛み」です。
その状況を知って、「なんてかわいそうなのだろう、辛いだろうな。悲しいだろうな。」と。

サマリヤ人が強盗に襲われた人を見つけ介抱した。そのときかわいそうに思った。
倒れていた人はユダヤ人でサマリヤ人とは仲が良くなかった。
だから助けなくても良かったのですが、しかし、この人はかわいそうに思った。
ここがポイントです。そして倒れていた人の痛みを自分の痛みとして引き受けた。

放蕩息子が帰ってくる。
この息子はバカ息子です。自分のやるべきことをやらず、飲酒や遊びにうつつをぬかしていた。
本当はどうでもいいのです。しかし、父親はかわいそうに思って息子の痛みを自分の痛みとして引き受けた。

★ここがポイントです。
この「痛み」を理解しないと神も聖書も理解できません。
私たちの神、「痛む神」なのです。
お母さんが、子どもの人生がうまくいかないとき「つらさ」のあまりに涙を流す。
そのように、神さまも罪人の私たちが神の御心にかなわないのをご覧になるとき、その「痛み」をご自分に引き受ける。

自業自得だ、懲らしめてやろうとは言わないのです。
その痛みを担い、その痛みを耐えることを通して罪人を受け入れてくださった。
ここに神の愛があります。それこそイエス・キリストの十字架なのです。
本来「受け入れられない者が受け入れられる」、「赦されない者が赦される」。

話しを戻します。
32節、35節で「自分の敵を愛しなさい。」と命令しています。
どう考えても不可能だと申しあげました。
なぜか、それは私たちには「敵を愛する」という、心、良心がないのです。
そのように造られていないのです。
どこにあるのか。その愛は神の中にあります。

キリストと出会うとき、全てではないにしろ、あなたもできるよと言うわけです。
キリストは私の痛みを追って下さった。だからあなたにも「自分の敵を愛しなさい」と命令します。
もちろん全部ができるとは思いませんが、場合によってはできなくはない。

十字架とはキリストの愛のコンパッションなのです。
日本語で表せば「共感共苦」。自分の痛みを無条件で負ってくれる人と出会うとき、癒やされます。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロは勧めています。
キリストが私たちの苦しみを担ってくださったように、私たちもまたキリストの苦しみを担う者でありたいと思います。
私たちも私たちの隣人の痛みを担う者でありたと思います。キリストがそうなさったように。


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2月17日の説教 「貧しき者は幸いです」ルカ6:17-26

ルカ6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海ベから来た大ぜいの民衆がそこにいた。6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。6:22 人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。6:23 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。
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きょうの個所はマタイ福音書では「山上の垂訓」とか「山上の説教」といわれています。山の上で語られたからです。ルカ福音書では
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6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海ベから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
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と場所が山から平地になっています。近くには民家がたくさんあったでしょう。
多くの弟子達の他、大勢の民衆がいたとあります。まさに巷です。
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6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
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「汚れた霊に悩まされていた人たち」とは今でいうと心の病を持つ人達だろうと思います。
そしていやしがなされます。先週も触れましたが、人達はイエスさまを求めていました。
神への何の期待もない信仰は有り得ません。
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ヘブル 11:1,信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
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求める者は受けるのです。ここには生きることに疲れ、苦しみ、悲しみを抱えた人。さまざまな人達がいたに違いありません。今の時代と似ています。このときイエスさまは真面目に生きろとか、正直に生きろなど、道徳訓話のようなことは言わなかった。ストレートに神の祝福を語りました。----------------------------------------
6:20「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
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「あなたがたは幸いです」と集まった人達を祝福されました。これは神の祝福です。「神の祝福」は、一度祝福してしまうと、取り消し、撤回することができません。私たちは何か約束しても反故になることがありますが、父なる神は、「すべてのことをご自分のご計画どおりに成し遂げられる方」なのです。聖書の言葉を引用し、神が語られた。ヘブライ語で「アーメン」、そのとおりですという意味になります。その最初の祝福のことばが「貧しい者は幸いです。」聞いた人達は耳を疑ったと思います。いったいどうしてさいわいなのか。ここがポイントです。「貧しさ」そのものがさいわいだというのではありません。貧しさは、自身や家族も大変なことです。場合によっては食べ物がないとか、病院に行けないとか、借金をするとか。それが良いとおっしゃっているわけではないのです。しかし、自分でもどうしようもない貧しさを負ってしまうことがあります。その人の責任ではないのにどうやっても這い上がれないことがあります。そこで自分の無力さをいやというほど覚えるでしょう。しかし、貧しさのゆえに真剣に神を求めるなら、あなたは神に出会い、さいわいが約束されますよ、とイエスさまはおっしゃっています。そこにはどうしても祈りが必要になります。「神さま、私は貧しいのです。どうか私を助けてください」と祈るなら神は聞いてくださる。自分の無力さを神に祈ることで神と出会うなら、あなたはさいわいを得るというのです。ですから、繰りかえし言いますが、神に求める必要があります。先週も引用しましたが、
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ヨハネ 16:24,あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
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求める者は必ず与えられます。神の約束です。しかし、私は自分が貧しいと感じたこともないし、経済的な余裕がある、という人もいるでしょう。ではお金があればいいのか、というとそれほど単純ではない。何不自由もなくゴージャス生活をしていても、誰からも必要とされない、愛されていないという貧しさもあります。「心の貧しさ」です。ザアカイがそうでした。同じルカ福音書19章に記されています。彼は税務署の役人でした。税金を取り立てる仕事は歓迎されていませんでした。お金がありましたが、誰からも相手にされなかった。しかし、彼はキリストと出会います。いちじく桑の木の下で「ザアカイ、降りてきなさい。わたしはあなたのところに泊まることにしている」と言われて家に迎えるのです。こうして180度人生が変えられました。
私たちもひとりひとり様々な問題を負っています。しかし、イエスさまは「それはあなたの問題だ。頑張りなさい」とは言いません。
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6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
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飢えという辛さを通してキリストと出会う。悲しみを通してキリストと出会う。人生、楽しいことよりも辛く、悲しいことのほうが多いと思います。そのその苦しみ、辛さを自分で抱えるのではなく、神に正直に訴えるのです。なぜでしょうか。私たちは神さまなしに生きることができないのです。そのように造られているのです。羊には羊飼が必要なように自分を導き、見守って下さる方を必要としています。人間は強い存在としてではなく、むしろ弱い存在として造られています。程度の差こそあれ、誰でも間違いも犯せば、失敗もする。疲れることもあれば、病気になることもある。しかし、そのことを通して神を見出すならさいわいを得る。このことを逆に考えたら分かると思います。最悪の人生は、神さまなんかいらない。自分は物やお金がある、能力があるから大丈夫だと思ってします。誰のお世話にもならないと考えているかも知れません。そうして自分にも人にも叱咤激励し、頑張って生きている。そうして本来、岩の上に自分の家を建てなければならないのに、砂の上に家を建ててしまう。最悪です。聖書は神抜きの人生は最後は滅びだと宣言しています。しかし、貧しさを通して神を求めるなら、さいわいが約束されるというです。
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詩篇 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
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私達の人生で苦しみや、悲しみに出会うこともあるでしょう。しかし、苦しみ・悲しみに会うとき、同時に神に出遭えるチャンスになります。そして祝福が与えられます。ここでは「神の国はあなたがたのものですから。」神の国とは神が治める、支配するという意味があります。その神の国が約束される。神を信じて祈りつつ人生を歩む。それがさいわいなのです。「求めなさい、そうすれば与えられる」とイエスさまがおっしゃるとおりです。


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2月10日の説教 人間をとる漁師 ルカ5:1-11
天地の造り主、歴史の導き手、恵みと憐れみに冨たもう全能の神さま、会堂改修工事の真っ只中ですが、このように私達を御許に呼び集めて御ことばに聞かせ、あなたの御名を崇めさせて下さることを心から感謝致します。教会に連なる全ての兄弟達、姉妹達のために祈ります。寒い日が続いていますが、体調を崩している方、お年を召された方、お一人お一人をそばにいて支えて下さいますように。御ことばが語られますが、信仰を持って受けとめることができますように。松田町の町民と近隣の人々に祝福がありますように。
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5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられた
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このときの様子が生き生きと描かれています。人々は病気のいやしでもなく、奇跡でもなく神のことばを聞くために集まってきました。
何でもない文章のように思いますが、ここに教会のルーツ、始まりがあります。教会とは「神のことばが語られ、それを聞くところ」です。それ以外のところではありません。讃美歌を歌ったり、食事をしますが、それが目的ではありません。
「神のことばが語られ、それを聞くところ」です。人々は喜びと希望、生きる目的を見いだすために、怒涛のごとく押しよせてきた。
いのちの言葉を聞いて生かされるためにです。このとき「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いた」。2千年前、こうして教会が始まりました。
今日、わたしたちも、これほど真剣に集まってきているでしょうか。人々は、何の希望もなく羊飼のいない羊のように弱りはてていました。今の時代と似ています。時代は違っても神は求める人に与えます。イエスさまはおっしゃっています。
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ヨハネ 16:24,あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
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与えられないのは求めないからです。求める者は必ず与えられます。
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5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
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イエスさまは「二そうの小舟」をご覧になった。この小舟の中に魚があったのでしょうか。前の日の夜から漁師たちは、夜を徹して漁をした。しかし、まったく捕れなかったのです。
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みことばを求めて我も我もと押しせまる群衆と、すぐそのわきに、一晩中、労して疲れはてた、何も収穫がなかった漁師達がいます。
なんとも対称的な光景です。しかし、イエスさまが、ごらんになったのは、失意のどん底にあった漁師達です。そして空の小舟です。
それだけではなく、何の役にも立たなかった舟を用いました。
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5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
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こうしてイエスさまは神のことばを語るためにシモンの舟を用いました。皆さん、考えてみてください。励まされます。失意のどん底にあった漁師達をご覧になって、何の役にも立たなかった舟を用いました。神のことばが語られるところで、このような恵みが与えられます。
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5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
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「話が終わると」とあります。ここがポイントです。神の言葉は、語られた後に本当に生きて働きます。礼拝が終わった、やっとこれで終りだ。まるで映画館にいたような気分で、そのあとは、「風と共に去りぬ」で帰ってしまう。しかし、御ことば消えてなくなるわけではありません。御ことばは語り終えた後が大切なのです。礼拝が終わった、一人一人にキリストに語りかけます。
イエスはさまは、シモンに向かい言いました、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」とおっしゃいました。
今までイエスさまは群衆に向かって語っていましたが、今度はシモン一人に、語りかけられました。
なぜシモンに語りかけたのか、シモンは、イエスさまを知っていましたが、しかし、従ってはいませんでした。知っていることと、従っていることとは違います。シモンは知っていたけれど、従っていなかった。イエス・キリストについて山ほどの知識があってもそれだけの話しです。いくら知っていても何も起こりません。従うというのはまったく別なことです。
私たちの中にも、ただ岸辺で、網を洗っているだけの信仰があります。何も獲れなかった網を来る日も来る日も洗っている。何も起こりません。何も始まりません。ただ網を洗っているだけの話しです。やがて無気力になって諦めてしまう。
信仰とは決断です。「ヘブル 11:1,信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」それは決断し、御ことばに基づいて行動に出ることです。信仰は、キリストを信頼し、網を投げることから始まります。網を投げなかったら何も始まりません。
シモン・ペテロは、疲れていました。夜通し働いたというのに魚一匹捕れないという現実。
ところがシモンは答えました、
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5:5 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
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もう一度やってみようと思いました。ここに信仰の決断があります。キリストへの従順があります。夜通し働いたけれど、ダメだった。それは百も承知で、しかし、決断しました。きょうのポイント、第1に「でも」、第2に「おことばどうり」、第3に「網をおろしてみましょう」。
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5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
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シモンは腰が抜けるほど驚いたと思います。失意のどん底と大漁はと紙一重なのです。
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5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
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ここで注意するのは、シモンは、決して大漁の前にひれ伏したのではありません。それなら、単なる御利益物語ですが、彼は、イエス・キリスト、このお方の前にひれ伏したのです。つまり、ただ魚の収穫のためではありません。彼の魂の救いのためでした。それには、自分の空しさを知らなければなりません。本当に神の前に自分を全部投げ出さなくてはなりません。そして神の尊厳に打たれなくてはなりません。
シモン・ペテロは今まで、イエスさまをよく知っていた。そして交わり、親しくしていた。しかし、ここで「私は、罪深い人間ですから。」と告白しました。ペテロはどんな罪を犯したというのでしょうか。泥棒をしたのでしょうか。嘘をついたのでしょうか。あるいは律法を破ったのでしょうか。
ここが大事なところです。彼の罪というのは、生きて働く神を心から信じていなかったことです。「網をおろしても多分ダメだ、自分は漁師でよく分かっている」、そういう自負心がありました。クリスチャンといっても名ばかり、そういう人もいます。本当に信じているわけではない。だから深い部分では神さま抜きでも自分はやれると思っていたわけです。心から信じていたわけではないのです。
しかし、彼は木端微塵に打ちくだかれました。そして、本当にわたしは罪深い者に過ぎませんと告白しました。

このときイエスさまは
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」自分は神の前に罪人であると自覚した人を神は用います。神はこわい存在です。しかし、神が近づいてくださいます。私たちも畏敬の念をもって近づくことができる。そして信じきることができる。
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5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
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ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスさまに最も近い弟子でした。この三人は教会を代表する人達です。
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5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
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彼らは本物、正真正銘の弟子になりました。私たちもその様な恵みを受けていることを感謝したいと思います。

祈ります。


2月3日 「信仰・希望・愛」Ⅰコリント人への手紙第12章27節-13章13節   
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
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手紙の背景ですが、コリントの教会は、パウロの熱心な伝道によって生まれた教会でした。
ところがご存知のように様々な問題を抱えていました。時間の関係で、その問題を取りあげませんが、要するに「賜物」からくる問題です。「賜物」というのは本質的には神さまから「賜ったもの」、「いただき物」です。
そのことをパウロは分かりやすく説明しています。
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12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
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そして28節、29節では「使徒」つまり伝道者、「預言者」は神のことばを預かる人、「教師」は教える人。
他にも「奇跡を行う者」「いやしを行う者」「助ける者」、それぞれ役割分担があった。
それを今流に言いますと、話のうまい人、料理のうまい人、計算が得意な人、賛美のうまい人、良く祈る人、献げる人、教会には様々な人がいます。私たちの教会も皆さん素晴らしい賜物を持っている。
あるいはそういうことができる人もいれば、できない人もいる。
要するにパウロの言いたいことは、いろいろな事ができてもできなくても、それは自分に与えられた神からのすぐれた賜物であって
13:2「愛がないなら、何の値うちもありません。」というのです。
13:3「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
私たちは教会でも、地域でも、家庭でも、職場でも、自分はこうなんだと主張します。あるいはどんなに豪華な教会を建てても、「愛がないなら、何の値うちもありません。」逆もまたしかりで、私は何もできません、という人でも「愛」があれば素晴らしいクリスチャンと言えるわけです。その愛も賜物です。
この手紙の中でパウロは愛の徳性をドラマチックに記しています。
<13:4-8>
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13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。
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素晴らしい言葉です。ここは何も解説する必要はありません。読めば誰でも分かります。「愛」というのは全人類に普遍的なものです。互いにいつくしみ合う心、いとおしいと思う心、幸せを願う温かい心です。その愛は人格的なあらゆる交わりを可能にする力になります。人は愛なき世界で生きることはできません。
聖書には黄金律と言われる言葉があります。イエスさまが一番大事なことといわれた言葉です。
つまりぶれることのない人生の中心軸となる言葉です。
それは『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばです。
「キリスト教とはどんな宗教ですか、?キリスト教の教えの特徴は何ですか?」と聞かれたら、皆さんはどう答えますか?いろんな答えが返ってくるだろうと思います。「キリスト教とは神の愛の宗教である」といっても良いと思います。だから世界中に広がっています。旧約聖書、新約聖書合わせて、「愛」とか「愛する」という言葉が日本語の翻訳によって多少違ってくるのですが、およそ600回使われていると言われています。
きょうのポイントは、その愛は私たちが受けた愛なのです。
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Ⅰヨハネ 4:10,私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、十字架にかかった下さいました。ここに愛があるのです。
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それは選びの愛です。キリスト教の神は全世界のすべての民を愛され、すべての人を愛されます、誰も神の愛から漏れる人はおりません。あたかも、選ばれたあなた一人だけを愛するように集中的に注がれるのです。
あなたもわたしも、すべての人も、そのような一人のわたしとして、神はわたしを、あなたをお選びになり、愛されるのです。わたしたちの愛は、その対象によって左右されています。
その人が、愛すべき価値や魅力を持っているから、あるいは愛すべき理由とか、関係とかがあるから、愛します。
したがって、愛すべき理由が失われれば愛も薄れていく。
神の愛は対象によって左右されることはありません。状況によって変わるものでもありません。
神の愛は永遠不変であるとともに、すべての人がその愛の対象です。
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13:8 愛は決して絶えることがありません。
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愛はいつまでも残ります。だから、
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13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
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「すべて」が4回繰り返されています。このことばがクライマックスです。
人は変わらぬ愛を求めて生きています。しかし、状況によって「愛」が簡単に「憎しみ」に変わってしまうのです。
そのように私たちは多くの失敗、まちがいを犯します。しかし、神の愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」そんな神の愛を受けていますから、希望を持つことができます。それが生きる力になるのです。


1月27日の説教 「真実な人間性の回復」イザヤ61:1-6
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。61:5 他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
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今、皆さんイザヤ書を開けておりますが、はじめにルカ福音書を確認しておきます。週報にある交読のルカ4章。イエスさまは、悪魔の誘惑に勝利したあとガリラヤにお帰りになりました。そしていつものとおり安息日にナザレにあるユダヤ人の会堂でお話になる場面です。たまたま開かれたイザヤ書61章を朗読し、そこに集まってきた礼拝者に語り掛けました。固唾を呑んで見守る聴衆に向かって「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われました。

そのイザヤ書が本日の説教個所です。きょうの61章はイエスさまが伝えようとした核心がここにあります。希望に満ちた個所で、ここを読むとき、福音書にはない強い霊的インパクを受けます。おわかりだと思いますが、預言者イザヤが生きた時代を少しだけ解説します。当時、イスラエルが、同じ民族なのに南ユダ王国、北イスラエル王国という二つの国家に分裂していました。それがよく知られた「バビロン捕囚」といわれる事件です。およそ紀元前600年から3回行われました。多くのユダヤ人がバビロンに連れてゆかれます。それが70年続きます。その後、ペルシャ王、クロスによって解放される。その時の様子を預言したのがきょうのイザヤ書です。60章1節から始まっています。「起きよ、光を放て、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」罪の悔い改め、主によって贖われたシオンが、光り輝く存在になって、周りの国々を照らす。壮大な神の救いの御業がスタートする。
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61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
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この「わたし」は来たるべきメシア、キリストです。1節、「貧しい者に良い知らせを伝え」とあります。
そのすぐ後に「心の傷ついた者」とあります。私たちは多くの失敗やまちがいを犯し、深い部分で傷ついています。イエスさまは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。そして人々の罪を自分のこととして背負い、苦しみ、そして贖いを全うしてくださいました。私たちは、その福音を祈りによって受け取ることができます。更に「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」と言っています。直接的にはバビロン捕囚からの解放を意味しますが、霊的には罪からの自由です。パウロは、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と告白しています。イエスさまは悔い改めるものを赦し、立ち返るものを回復させて下さる。そして全人格的ないやしへと向かいます。----------------------------------------
61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
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きょうは「主の恵みの年」という言葉がポイントになっています。「主の恵みの年」とは少し説明が要ります。旧約時代の50年毎に「ヨベルの年」が到来しました。ヨベルとは「雄羊の角」という意味があります。雄羊の角笛が全国に響き渡ります。それを合図に人々は解放されます。奴隷も解放され、自分の故郷へ帰る。財産や土地、奴隷であっても、もともと神の所有物です。すべて所有者に戻されます。畑の耕作も禁止されます。1週間の終わり7日目を「安息日」といいます。年にも「安息年」が定められていて7年目ごとの最後の年が「安息年」。7年を7回繰り返しますと7×7で49年、翌年の50年目がヨベルの年。理解しにくいかも知れませんが、「恩赦」という制度があります。裁判所以外の判断で刑事罰の内容を変更する。あるいはなかったことにするという制度です。それに近いものだと考えて下さい。
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★61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
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主イエス福音そのものが、人々をこの世の罪から解放するヨベルの角笛だというのです。きょうの結論は、その角笛を聞く者は、誰であれ今までの罪の負債をキリストの尊い血潮を持って買い戻していただける。まったき罪の赦し、永遠のいのち、神の子としての祝福を受ける。
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61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
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このような祝福が手の届くところに在るよ、というのが「主の恵の年」という言葉です。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1-2)。いつですか、きょう、今なのです。
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ルカ福音書、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
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「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」イエスさまは「耳のある者は聞きなさい。」と言われました。おかしな言葉ですが、それは耳があるのに聞かない人が居るのです。ぜひ霊の耳をもって、祈り心を持って聞いて、心に刻み付けてほしいと思います。そのとき聞いた人にとって2019年は、聖書の言葉のとおり、まさしく恵みの年になります。

お祈りを致します。


1月20日の説教  「カナの婚礼」ヨハネ2:1-11
ヨハネ 2:1,それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2:2,イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。2:3,ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4,すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」2:5,母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6,さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。2:7,イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。2:8,イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。2:9,宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、2:10,言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」2:11,イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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きょうの個所、「カナの婚礼」と言われています。不思議な雰囲気のあるエピソードです。ことの善悪、あるいは道徳的訓話でもないし、律法の良し悪しでもない。また誰かの失敗を補うような話しでもない。結婚して幸せになる話しでもない。サッと読んだだけでは真理を掴みにくいところです。イエスさまと弟子達、そして母マリアが結婚式に招待された。しかし、新郎新婦の名前もわかりません。イエスさまと新郎新婦とはどこで知りあったのでしょうか。どういう関係でしょうか。
その婚礼でぶどう酒がなくなるという話しですが、当時のユダヤでは、ぶどう酒がどこでも飲まれていたわけではないようです。人々はほとんどが小作人。それほど豊かではありません。ところが結婚式のような御祝い事では盛大に振る舞う。そのために新郎新婦の家族は生活を切り詰め、貯えをし、親戚、友人、知人を招く。なぜぶどう酒がなくなったのか、理由が記されていません。しかし、招く方としては大失態です。宴の席でぶどう酒がないことは、飲みものがない有り得ない話しです。そのことが、母マリアからイエスさまに伝わりました。
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2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
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突きはなすような言い方ですが、「わたしの時」と言っています。時は神が支配する。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。」出来事の決定は人間ではなく常に神の御手のうちにある。そのことを母マリアは知っていました。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
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石の水瓶が100リットルとして、石の水瓶が6つですから重さで600キロです。これを水で満たす。大変な作業だったと思います。ここで「ユダヤ人のきよめのしきたり」とあります。ここがきょうのなぞ解きのポイントです。詳しいことは分かりませんが、モーセ律法とも関係があると思います。古来から伝わるユダヤ特有の「ならわし」、習慣となっているユダヤ教独自の「きよめのしきたり」があった。そうして身体を洗った。それが長い間繰り返し行われてきた。そのきよめの伝統儀式で使われていた水瓶があった。この水瓶の中に入れが水をイエスさまが真っ赤なぶどう酒に変えてしまうのです。繰り返します。ここがポイントです。新郎新婦の名前、ぶどう酒がなくなった理由、どうでもいいのです。ユダヤ教の古いしきたりにしがみついて、きよめの儀式を繰り返してきた。しかし、そこには真実な喜びがなかった。皆さんも気がついたと思います。石の水瓶が六つあった。六という数字、完全数の7に一つ足りない不完全数です。その六つの水瓶を全部、ぶどう酒に変えてしまう。
きょうは顕現節の第二主日です。「顕現」とは、神がはっきりと姿が現すこと。それをイエスさまは時代、歴史の転換としたわけです。古いしきたりである「石の水瓶」によるきよめの儀式は私たちを幸せにはしない。それをいくら繰り返したところで、そこには喜びはないのです。2019年、すでに始まっていますが、皆さんにとってどんな年になるでしょう。あいかわらず疲れはて、古い自分にしがみつくのでしょうか。聖書はいつも喜んでいなさいと言っています。疲れはてた時代から、新しく力を与えられる時代。それはキリストが与えてくださる喜びです。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
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わかりました。イエスさまの言われることは何でもします。そういう年でありたいと思います。古い時代は過ぎ去る。信じる者は新しくされる。「Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして最上のぶどう酒を振る舞った。
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2:10 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
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当時の祝宴ではこういうごまかしをやるのです。世の常です。酔ってしまうと、味覚が分からなくなるので、まだ酔っていない時に、美味しいぶどう酒を出して、酔っ払ったときには安いぶどう酒を出す。しかし、イエスさまによって祝宴の真っ盛りに最上のぶどう酒が出された。豊かな赤いぶどう酒は新しいメシアの時代を象徴する。来たるべき栄光の時代です。ぶどう酒は聖餐式にも使われます。キリストの血です。いのちです。キリストを信じるとき、すべてが変わる。水がキリストのいのちに変えられる。未だ来ていなかった時代が、ここにある。そうして神の御子イエスの隠された栄光が開示される。しかし、キリストを信じようとしない人には真理は隠されてしまう。
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2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。
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下働きの人達です。宴会で浮かれて騒いでいる人達は知らなかった。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」----------------------------------------
私たちも水を汲もうと思います。望むものを願うならば、かなえられる。
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2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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福音書で「しるし」というと十字架の贖いという意味があります。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」というのです。2019年、私たちもイエスさまを信じ、喜びの年にしたいと思います。

祈ります。

1月13日「イエスの洗礼」ルカ3:15-17.21-22
ルカ3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


きょうは15節から22節までですが、16節から20節はテーマとはさほど関係がないので省かれています。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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民衆は、バプテスマのヨハネは、メシアではないかと考えていました。そう考えるのは、旧約のあらゆる預言者が、メシア到来を預言し、ユダヤの人々も長年にわたって待ち望んでいたのです。
そこにヨハネが現れ、イザヤの言葉を引用し、「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」そうしてヨハネは、12節にもあるように、悔い改めのバプテスマ、洗礼を授けていました。
その時にイエスさまもバプテスマを受けたという聖書個所です。きょうは時間の都合で、16節と17節は省きます。21節と22節が本題です。イエスさまが洗礼を受ける場面です。バプテスマというギリシャ語は、ご存知のように「沈める」とか「浸す」という意味です。それは罪の赦しです。イエスさまは、罪の赦しの必要のない唯一の人です。このことはヨハネも知っていたと思います。なぜ、洗礼を受けたのか。理由が記されていません。そのことを考えてみたいと思います。まず、イエスさまは、何をしていたのかが記されています。
21節、後半、父なる神に祈っていたのです。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
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「祈っておられると、天が開け、」とあります。イエスさまは祈りの人でした。大切なときは、必ず祈ります。
「ゲッセマネの祈り」「お弟子を選ぶとき」「十字架の上」でも祈りました。その他、重大な場面では必ず祈ります。そのとき、
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天が開け、 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」その祈りの答えでもあったわけです。まさにキリストが神の子として宣言されるわけです。そして父なる神の御子イエスとして祝福を受けた。またそこには聖霊の働きがあった。まさにイエスさまは父なる神の愛と喜びを全身に受けた。イエスさまは神に対してはゆるぎない信頼を持ったと思います。と同時にイエスさまは父なる神への従順、どんなに困難なことがあっても従う。それは私たちを救うためです。私たちは、キリストを通して父なる神と繋がることできるのです。すべての人に救いの道を開くことになります。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。あなたもイエスさまを通して赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。それにしてもなぜ、イエスさまが罪の赦しである洗礼を受けたのかなと思います。皆さんはどうですか。それは結構なことだよ、と思いますか。確かに神学的な説明がされていますが、それでもなぜだろうか、と思わなくもない。

そこできょうは21節のみことばを一緒に考えてみたいと思います。ここにヒントがあるような気がします。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、」
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最初の「民衆がみなバプテスマを受けていた」とあります。おそらく、そこに居た、ほとんど全部の人が洗礼を受けていた。これだけの人をヨハネがひとりで洗礼を授けることは大変なことだと思います。それは、今日でも変わりません。洗礼を受けるというのは、勇気が要ります。授ける方は何でもありませんが、受ける方は緊張します。
予行演習もありません。特に全身礼となると服を着たま全身を冷たい水に浸すわけです。皆さん、「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が必要かも知れません。おそらくこのとき、長蛇の列、行列が連なりが長く延びていたと思います。それをヨハネがひとりひとり授ける、自分の番が来るまでは相当、時間がかかる。ヨハネのバプテスマの時も税人、兵士などもいたくらいですから、あらゆる人が行列していた。その行列の中にイエスさまがいたのです。皆さん、想像してみてください。しかも誰も気がつかなかったのです。

話を変えます。小田原でも12月28日から1月4日まで毎日炊き出しが行われ、石井さんや滝さんも連日、お手伝いをしました。カトリックの本田哲郎神父というの人、この方は、ホームレス支援を行っていて「釜ヶ﨑と福音」をいう本を出しています。大阪の釜ヶ﨑(あいりんちく)は日雇が多いのですが、その本の中に「炊き出しの列の中にイエスさまがいる」さし絵があります。大変印象的な絵です。つまりイエスさまは社会的に弱い立場に立たせられた人達の中に、貧しく小さくされた者の側にいるのです。しかも誰も気がついていなのです。

それは、すべての人に救いの道を開くためでした。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。
あなたも赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。そのイエスさまが、私たちと同じ罪人として受ける必要のない洗礼を受けられた。イエスさまは今も、私たちの中にいてくださるのです。そのことを心からキリストを賛美したいと思います。

 


1月6日「キリストにある霊的訓練と成長」ヨハネ3:1-15

ヨハネの福音書第3章1-17節
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。----------------------------------------
毎年1月の第1日曜日は、「年間聖句」と「テーマ」を毎年、分かち合うことになっています。すでに週報に最初のページに掲載されています。私たち聖契教団が大切にしている六つの原則の中から、一つずつ毎年取りあげています。今年で8年目になります。私たちの教会の元々のルーツは、ルターや、カルバンといった人達による宗教改革ですが、今から100年度ほど前、18-19世紀に起きたいわゆる教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動です。幼児洗礼は認めないとか、滴礼は認めないとか、黙示録にある千年王国を信じなければならない、とはいいません。いわゆるリバイバル・ムーブメントです。だから人種、民族、文化、性別、年令をこえて今、世界に広がりつつあります。だから自由教会ともいわれています。それがヨーロッパ、スエーデン、アメリカにも飛び火しました。今から70年程前にドイツ、アメリカ、スエーデンから日本に宣教師が来てつくった教会の群が各地にあります。岐阜県を中心に「同盟福音教会」岡山県「聖約教団」全国的には「福音自由教会協議会」、それと聖契教団。聖契教団は「北米カナダ福音教会」が日本で設立した団体。
英語ではカベナント教会とも呼びます。契約という意味があります。そこから聖なる契約、聖契キリスト教会ともいいます。

話しを戻しまして、聖契の教会には六つの原則があります。私なりに分かりやすい言葉でまとめますと、
一つ目は「神のことばの大切さ」
二つ目は「新しく生まれることの大切さ」
三つ目は「私たちの教会は様々な形で宣教をします。」
四つ目は「教会の交わりを大切にします。」
五つ目は「聖霊の働きを信じます。」
六つ目は「キリストにある自由を大切にします。」

きょうは二つ目の「新しく生まれることの大切さ」についてみことばを分かち合います。今年の聖句としてヨハネ3:3「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」表題として「キリストにある霊的訓練と成長」という題で6年前と同じです。イエスさまとニコデモというユダヤ人指導者との問答です。
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3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
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ユダヤ人の指導者とあります。おそらく「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会のメンバーであった可能があります。
裁判権があり、宗教的・政治的権威と持っていた。メンバーは祭司や律法学者たちです。だから学識と教養、地位と名声と権威を持っていた人であったと推測できます。
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3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
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この個所のキーワードは「知っている」という言葉です。ニコデモはイエスを知っている。なぜなら神があなたと共にいるのでなければ、あのような奇跡が起こるはずがない。自分よりも若く、無名なイエスが活躍するうわさを耳にしていました。しかし、イエスさまは
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3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
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この個所、質問のこたえになっていません。ニコデモがイエスさまに「私はあなたを知っている」といったら、こう返された。なぜ「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃたのか。私なりに考えてみました。ニコデモはイエスさまを「知っている」といいました。しかし、知っているから、その人が本物のクリスチャンであるとは言いきれません。いくら学識と教養、地位と名声があっても真実にいのちあるクリスチャンとは言いきれません。私が思うには、ニコデモの質問は、どうでもいい質問だった。イエスさまはことの本質を尋ねました。「あなたは新しく生まれましたか」英語でボーンアゲーンといいます。生まれ変わる。つまり、本当の回心の体験です。罪が赦され、聖霊によってまったく新たに生まれ変わることです。それが劇的な体験でないにしろ、本物の喜び、感謝、平安がある。
先ほど申しあげましたが、私たちの教会は教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動から生まれた教会です。
カベナント教会は、教理的には堅苦しいことはいいません。ただし、本物を求めます。
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Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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私たちカベナント教会は、「新しく生まれる」ことをなくてはならない体験としています。ちょうど母親の胎内から、生まれ出るという、闇から光に移される体験です。ヨハネ福音書の特徴ですが、光と闇のコントラスをいくつかの個所で記しています。きょうの個所もそうです。3:2「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」なぜ夜来たのでしょうか。昼間は人目につくし、プライドもあったのかもしれません。しかし、イエスさまはすでに見抜いていました。ニコデモは霊的には、夜の人、つまり闇の中の人でした。教養もあり、名声もあり、尊敬も受けていました。しかし、「新しく生まれる」という体験がなかった。だからこのあとのイエスさまとの問答はちぐはぐです。
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3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」
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なぜ、新しく生まれるという体験が必要なのか。私たちキリスト者が神のことばに従い、祈りと行いを持って実行する。
そのときに一番必要とするものは何か。それは力です。皆さん、生きることにかったるさを覚えていないでしょうか。教会へ行くのも、聖書を読むのがおっくうだ。祈ろうと思うのだけれど、気分がのらない。毎日がかったるい、くたびれて、だるい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。これらのものはすべて与えられます。」頭の中では分かっている。しかし、気力がない、喜びがない。それは力がない状態。
日本では、洗礼を受けても信仰を維持する力がなくなってしまう人は少なくありません。繰り返していいますが、神の御心を行う力がなくなっているからです。人間的な努力とかんばりできるわけではないのです。
聖書はいいます。
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使徒 1:8,しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
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それは二千年前でも今でも変わりません。聖霊が降るとき、神を愛し、隣人を自身のように愛する力が与えられます。自分はまだ「新しく生まれる」という体験がなくても求めるなら与えられます。「求めよさらば与えられん」です。それはあってもなくてもよいものではありません。なくては原則です。それは永遠のいのちにかかわることなのです。
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3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
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15節と16節でイエスさまは「永遠のいのちを持つため」とおっしゃています。だから永遠のいのちにかかわることなのです。「新しく生まれた」というのはいのちの始まりです。皆さん、「自分は新しく生まれた」という概念を持っているでしょうか。もたない人は、成長する、という概念もありません。だから霊的な成長がないのです。同じことを繰り返しているだけ。堂々巡りです。産まれたばかりの子ども、当たり前ですが、毎日が失敗だらけです。しかし、成長するに従って失敗をしてもそれを学習します。それと共に成熟していきます。それは一生涯続きます。時には失敗することもあるし、試練が与えられることもあるでしょう。しかし、堂々巡りはしません。成長し続けます。そして聖霊によってキリストの似姿に変えられていく。
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「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:13)。
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それが聖霊の働きです。繰り返しますが、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新しく生まれなければ、永遠のいのちもなければ、霊的訓練も霊的成長はありません。皆さん、自分の母親からオギャア、オギャアと生まれたときのことを覚えているでしょうか。?誰もいません。それは、後から分かるわけです。救いも必ずしも劇的な体験ではありません。しかし、神の御霊が導いて成長させてくださる。そのことをぜひ祈り求めてください。私たちは間違うことがあっても神のことばは間違えません。最終的には永遠のいのちを持つためです。2019年、自分の主導権を神の御霊に委ねて前進したいと思います。

祈ります。


12月30日の説教 「神殿での少年イエス」 ルカ2:41-52
御子、イエス・キリストを私達の世界に生まれさせてくださった恵みの神様、2018年最後の日曜日、私達をこの礼拝に呼び集めて下さったことを感謝致します。この一年間、私達の歩みを支えてくださったこと、また先週の礼拝では多くの方々と共に主イエスの誕生を祝い共に喜びの時を過ごすことが出来ました。そのことも感謝します。神様、教会に連なる全ての兄弟姉妹達と私達の心にかかっている方のために祈ります。病める方、その他、体調のすぐれない方々をなぐさめ、支え、癒しの御手をさしのべてくださいますように。また、CS礼拝の子ども達を今年も豊かに恵んでくださいました。来るべき年も守り導いて、心と身体を健やかに成長させてくださいますように。この街に住む町民の方々の上に良い新しい年が与えられますように。この礼拝のあなたご自身が親しく導いてくださって私達一同に新たな希望お与え下さいますように、希望を抱いて家路につくことが出来ますように、切に祈ります。貧しいこれらの感謝と祈りを主イエス・キリストの御名によって捧げます。
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先週生まれたばかりのみどりごは、一週間で12歳になりました。今でいう小学生6年生でしょうか。?
ところでイエスさまは、およそ30歳で公生涯に入られましたが、それまでどう過ごされたか、分かっていません。
その意味では、きょうは貴重な幼少期の様子を伺い知ることができます。当時、ユダヤの人々は、エルサレム順礼を毎年、過越の祭りにあわせて行っていました。ナザレからエルサレム神殿までおよそ100キロの旅です。
ところがそこで思いも寄らない事件が起きます。
<2:41-45>
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少年イエスは行方不明になります。
当時、順礼団を組織して旅をするわけですが、エルサレム順礼を終えて帰り道でイエスが見当たらないことに気づきます。ごったがえす過越祭で子どもが迷子になることは有り得る話しですが、
両親は、大変な思いで探しつつエルサレムまで戻ります。
<2:46-48>
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イエスはエルサレム神殿にいました。そして教師達、つまり祭司や律法学者のまん中に坐って討論していた。
この時、人達は「イエスの知恵に驚いた」とあります。この時すでに普通の子どもとは思えないような知恵があった。
それはわきに置いておいて、両親は三日間も探したわけで怒り心頭。ところが、意外な言葉が返ってきます。
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2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
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なぞめいた言葉です。ミステリーな、なぞ解きみたいな言葉です。
誰が聞いても拍子抜けしてしまう。皆さん、この言葉の意味、おわかりでしょうか?私も分かりません。
ご両親は「親族や知人の中」にいると思って捜しまわったが、イエスは「自分の父の家にいる」と言われた。
どんな意味か、さっぱり分かりません。

ただしヒントがあるとすれば、二つの言葉です。ひとつは41節の「過越」という言葉です。エジプトで奴隷であったユダヤ人の先祖が、モーセに率いられてエジプトを脱出したとき、神はエジプト中の初子(ういご)を殺したが,小羊の血を入口に塗ったヘブル人の家だけは過ぎ越したという出来事です。そしてキリストは過越の祭りで十字架にかかります。キリストの十字架と関係があります。二つ目は46節の「三日の後」ということばです。これはキリストの復活用語です。
キリストは三日目に死人のうちより復活した。つまり「自分の父の家にいる」という言葉に中に十字架と復活が隠されているのかもしれません。しかし、私はうまく説明できません。

50節、両親もイエスの話された言葉の意味が分からなかった、ということです。
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2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
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きょうのポイントは「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ということばです。新共同訳では「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」こちらの訳が良いかも知れません。結論から言いますと、ここが母マリヤの偉いところだと思います。イエスの不可解な行動があって、自分達もそれに三日間振りまわされた。大変だった。ここで母親として、息子にガツンということもできたと思います。「お前は、何を言っているのだ。私たちは心配したんだよ」と言うこともできた。しかし、心に納めたのです。腑に落ちないまま心に納めたのです。ここでもう一度話しを整理してみましょう。三日間、「親族や知人の中」を捜しまわった。どの親でも例外なくそうしたと思います。これは当たり前です。だれが考えても当然そう思います。しかし、イエスは「わたしは父の家に居る」と言った。

つまり私たちの当たり前は神の当たり前、とは限らない。私の当然が、神の当然だとは限らない。私たちがこうあるべきだと思うことが、神も同じように思うとは限らない。なぜでしょうか。人間に限界があります。なぜなら神のご意志を、イエスさまのすべてを理解できるわけではない。信仰とは納得することではありません。

母マリヤはその日の出来事を、そのまま心に納めたのです。開かないドアを無理にこじ開けようとしなかった。イエスのおっしゃった意味が分からなくても、胸の中に納め、暖め続けたのです。その時分からなくても、時間をかけることによって聖書の言葉が分かることもあります。言い換えれば、あわてず、騒がず神にゆだねたということです。
聖書は「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
私たちは限界があります。しかし、ゆだねることによって乗りこえることができるのです。神はあなたが「心に納めたこと」を覚えていて下さり、時が来れば必ずことをなしてくださるのです。マリアの讃歌の中に(ルカ 1:45)「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」2018年も明日で終わります。私たち個人のことであってもも、教会のことであっても様々なことがありました。神さまはそのことを覚えていて下さる。2019年は「私も父の家にいる」とひとりひとりが告白できる年になると信じています。

祈ります。


12月23日の説教 ルカ2:1-20
ひとり子をお与えになったほどに、私共を愛された全能の神様、きょう降誕日を迎えました。そして皆さんと共にこの礼拝に連なることができました。どうか、一人、一人を祝福してくださいますように。あなたは、まさに、私たちに救い主を送ってくださり、主イエスにおいて新しい天と新しい地を、新しい心と新しい願いを、新しい希望を全ての人に送ってくださいます。それゆえに祈ります。仮設にいる人達、路上で生活しなければならない人達、少年院や拘置所ににいる人達、また児童相談所に預けられている子ども達。戦争のために難民となった人達、饑餓の中にいる子ども達、あるいは突然の事件や事故のために苦しんでいる人たち、また様々な差別や偏見の中にいる人たちを助けてください。どうか、いと高きところでは栄光があなたにあり、地上では平和が御心にかなう人々にありますように。私たちにあなたと共に生きる喜び、また多くの隣人、兄弟姉妹と共に生きる喜びを与えてください。これから御ことばを分かち合いますが、話す言葉と聞く耳をお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストによって祈ります。
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クリスマス、おめでとうございます。松田町もこの時期、子どもの館にイルミネーションが輝いて夜は、大勢の人が訪れています。クリスマスは、ヨーロッパが本場だと思いますが、サウジアラビア、イランなどムスリムの人達、インドのンドゥーの人達もイベントとして楽しむようです。なぜ、国や人種や宗教を超えて楽しむのか。私も正確なところは分かりませんが、何かホットする、おだやかな気持になれるのだと思います。ご存知のようにクリスマスの原点は聖書にあります。聖書が教えるクリスマスは何なのかを一緒に読みたいと思います。

2:1-20を司式者が読んでくださいましたが、
<1節から3節までをもう一度読みます。>
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1節の全世界というのはローマ帝国のことで、「住民登録せよという勅令」は皇帝アウグストが出した命令です。
アウグストは紀元前27年に在位しています。当時のユダヤはローマ帝国の支配下、今でいう植民地です。何のための住民登録なのか、それは税金を取るためだったといわれています。当時は戦国時代、絶えず隣国と戦争をしていました。そのため税集、それを軍事費に使うためです。当時、皇帝アウグストは世界一の絶大な権力者で、人々はアウグストを神格化し、礼賛していました。そして軍事力、経済力にものを言わせて支配していました。
ユダヤの人々は政治的にも、経済的にも、宗教的にも虐げられていました。
<4-5節を読みます>
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住民登録のために、マリヤとヨセフが、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に行きました。ナザレからベツレヘムまで140キロです。お腹の子どもにとっては危険な旅でした。
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<6-7節を読みます>
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ベツレヘムに着くと宿を探しましたが、宿屋はどこもいっぱい。理由は分かりません。同じように住民登録の人達がすでに泊まっていたのかも知れません。いずれにせよ、わざわざ「彼らのいる場所がなかった」と記しています。子どもが産まれるというのに「いる場所がない」とは、実に寂しい、辛い話しです。そして、「2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。」とあります。「飼い葉おけ」とは牛とか馬が草を食べるときの桶です。おそらく家畜小屋です。暗くて不衛生な場所だったと思います。
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2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
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羊飼い達が出てきます。「羊飼」は古代社会では最下層、もっともレベルの低い人達でした。まともな人間として扱われませんでした。ですから裁判でも証言することがゆるされなかった。
<2:9-14>を読みます。
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9節で「主の御使い」が登場します。聖書では重要場面では必ず神の御使い、天使が登場します。
ここがクリスマスのクライマックスです。13節では「その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。」この場面、天の軍勢による大合で讃美歌が歌われ神の栄光が照らす。実に絵画的です。この時期、毎年、ベートーベンの第9が歌われます。歓喜の歌声です。その他にもバッハのクリスマス・オラトリオ、ヘンデルのメサイヤ、シューベルトのアヴェマリア。あるいは数多くの讃美歌が生まれました。古今東西、さまざまなクリスマス・ソングが歌われています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」恐れではなく喜びです。あなたも喜んでいいんですよというメッセージです。
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話しを戻しますが。世界中で人種や宗教を超えてクリスマスが楽しまれます。なぜでしょうか。?
本当は皆、心の底では、おだやかに、平和に、過ごしたいと思っています。軍事力や経済力で人を支配したり、支配されたくないのが本音です。しかし、現実は力とかお金といってもよいかも知れません。皇帝アウグストのような人が居るのだというのではなく、それは私たちの中にもあります。自己中心な思いです。自分さえ良ければという思いです。そのことを聖書は「罪」ということばで言い表しています。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そして三日目に甦って下さいました。ここに神の愛が示されました。そして今も生きておられます。私たちは祈ることのよってキリストと繋がることができる。そこに赦しがあります。永遠の命があります。これが私たちに届いた喜びの福音、喜びの知らせです。そのためにキリストは生まれて下さいました。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と記しています。飛躍しますが、人によっては職場や学校、家庭などで、居場所がないと感じる人は少なくない。そこには孤独があります。「相手から関心を向けられていない」という感覚です。
イエスさまは、どんなに低く貧しい境遇に置かれても、その人の気持ちが分かることではないでしょうか。?
私たちの教会も今、改修計画があって来年はチャペルのとなりをかふぇにして「居場所づくり」をする計画です。
クリスマスは、私たちを罪から救い、新しいいのちを与え、神をほめたたえ、隣人に仕える生活を与えて下さるキリストを、私の暗闇の心お迎えするのが本当のクリスマスです。皆さんの上に、クリスマスの祝福がありますように。

祈ります。


12月16日「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(ルカ3:7-18)

先週の続きになります。
3章7節で「それで」とありますが、3節で「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」。
「それで」、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と勧めています。そのために具体的な行いから、クリスマスを迎える心構えを教えています。きょうの個所は、ヨハネの歯に衣[きぬ]着せぬ裁きの言葉が随処で響きわたって切迫感、緊迫感があります。たとえば、
7節「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
9節「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
17節「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
いずれも裁きの言葉です。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。
神の裁きが始まりますよ。裁くとは、あなた自身の善悪についての神のご判断です。
今のままで良いのですか。?
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
「まむしのすえ」とは神の反逆者。誰であっても神の怒りから逃れることはできません。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、
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3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
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8節の「実を結ぶ」がポイントになっています。
皆さんもご存知ですが、聖書では「実を結ぶ例え」が数多く出てきます。
ことばでは調子良く「ハイ、ハイ、分かりましたとか、そうします。」と言います。
しかし、結果が伴うとは限りません。
実を結ぶとは、時間がかかります。土を耕し、種を撒いて、水をやり、成長して実がなる。
時には何年もかかります。イエスさまもおっしゃっています。
「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
「実によって彼らを見分けることができるのです。」
その人が真実かどうか、実を見ると分かります。
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。」
ユダヤ人は民族意識が非常に強いと言われています。それは旧約聖書に民族の歴史を持っているからで「先祖はアブラハムだ」。自分達は神に選ばれたというプライドです。
しかし、神の前では通用しません。「斧はすでに木の根元に置かれています。」
「悔い改めにふさわしい実」を結んでいるか、いないかのです。それを聞いた群衆は身震いします。
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3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
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すがるような思いで「どうすればよいのか」と尋ねました。ヨハネが「この荒野で40日間の祈りと断食だ」といえば、皆そうしたかも知れません。難行苦行です。しかし、そう言わなかった。
拍子抜けするほど単純で平凡なことを言いました。
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3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
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特に自分よりも困っている人に「着るもの」や「食べる物」を差しあげなさい。
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3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
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取税人は職権を利用し、お金を余計にかすめ取ることが多かった。
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3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
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兵士も給料が少なかったので、時には暴力やおどしでお金を得ていた。ヨハネの言ったことはきわめて常識的な教えで自己中心的な生き方ではなく、隣人を大切にすることです。イエスさまもおっしゃた、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。またヨハネ自身も謙そんな人でした。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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そのことを察知してたので、イエスさまを紹介します。ここがクライマックスです。
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3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
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「聖霊と火のバプテスマ」は解釈が難しいのです。やがて起こるペンテコステの救いなのか、単なる清めなのか。
あるいは世の終りの刑罰なのか。私もうまく説明できません。いずれにしろ聖霊の働きがなければ、罪を悔いあらためてイエスさまを信じることはできません。火というのは罪の汚れを焼きつくすことかもしれません。
キリストを信じて救われるというのは、心と身体と魂の救い。全人格的な救い。完全な清めと無条件の赦し。永遠のいのちが保証される。きょうはヨハネの裁きの言葉が語られました。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。きょうのポイントとして、神の裁きが始まりますよ。しかし、同時に恵みの時でもあります。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、そこに恵み、喜びがあります。
あなたはどちらを選択するですか、裁きか、恵みか。
最後の18節はルカ自身の言葉です。ルカは悔い改め、恵みとして受け取ります。
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3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
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福音という言葉が入っています。「福音」とは喜びのおとずれです。
クリスマス、それは喜びの到来。喜びそのものが、やって来る。
暗い顔をしなくていい。生きていてよかったね。あなたも喜べるんだ。喜んでいいんだ。
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ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
   4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
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きょうの個所は、ヨハネの裁きの言葉が随処にある。しかし、神に向かって方向転換するなら大きな喜びを受け取ることができます。あなたはどちらを選択するですか、裁きか、喜びか。

祈ります。


12月9日 「あらゆる人が神の救いを見る」ルカ3:1-11

バプテスマのヨハネの登場です。イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。旧約時代の最大の預言者であり、キリストを新約に招き入れる人として称賛しています。実際にヨハネの登場以来、福音の扉が開かれました。聖書は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と語っています。こうしてヨハネは「来たるべきエリヤ」として旧約と新約の橋渡しをする人となりました。
1-2節が、ルカはヨハネの登場を興味深く語っています。
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3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
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神のことばが下ったというのですが、1-2節には私たちもよく知っている名前が出てきます。
ポンテオ・ピラト、ユダヤの総督ヘロデ、大祭司アンナス、カヤパ。
エルサレムで豪勢に暮らしていた時の権力者、国の中枢にいた政治家、神殿の宗教指導者達です。
そして権力による支配と維持を追求していた人達です。
神のことばに導かれたヨハネは何を語ったのか。?
3節、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」とあります。
罪とは「神の律法に背く」ことですが、「的外れ」「すじ違い」のことです。
要するに頓珍漢な生き方です。そこからの「悔い改め」は「自分の心を変える」という意味です。
心を変えなければ、キリストを救い主として迎入れることは不可能です。
自分を変えるとは、なにか小手先で手直しすることではありません。
生き方の根本的な方向転換です。ヨハネは預言者イザヤの言葉を引用します。
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3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
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キリストが私たちのただ中にやって来られる。だから、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と。しかし、私たちの心の中は我欲でいっぱいです。主の道を用意しなさいと言われても、3節にあるようにまるで「デコボコ道」です。まるで谷や山のようになっている。しかし、罪を悔いあらためて洗礼を受けるときに、デコボコ道は平らになって、キリストをお迎えできるようになるというのです。
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3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
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きょうはクリスマスを前に、キリストをお迎えするには、具体的にどうしたらよいのかということですが、
パウロの手紙ですが、ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
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1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。
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パウロの祈りですが、私たちの祈りでもあります。ポイントは、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」「真の知識と識別力」が必要だというのです。どこから与えられるのでしょうか。それは聖書のことばです。神のことばです。ルカ福音書の個所でも、神のことばが下ったのはピラトでも、ヘロデでも、アンナスでも、カヤパでもないヨハネに下った。そのときヨハネは正しい言葉が与えられ、正しい判断ができたのです。今、情報があふれています。そして多くの人が必要のない知識、情報に振り回されてます。
愛が豊かになっていくためにはどうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要になります。そうでなければ、真にすぐれたものを見わけることができません。単なるお人好しとか、同情心があるとかはダメです。
どうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要です。神さま、私に真の知識とあらゆる識別力をお与えくださいと祈る必要があります。
このときに注意することは、「純真で非難されるところがなく」とパウロは言っています。純真とは謙遜ということです。人は知識や識別力を持つとき、思いあがるのです。
なぜ、神のことばがピラトやヘロデ、アンナスやカヤパに下らなかったのか。
それは「純真」でなかったからです。彼らは、権力による支配と維持を追求していたからです。
私たちに「真の知識とあらゆる識別力」を与えてくれるのは、とりもなおさず聖書です。それが神の国の価値観になります。このアドベントの期間、「真の知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになるように祈りたいと思います。

祈ります。


12月2日 「人の子の前に立つことができるように」ルカ21:25-36

21:25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
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聖書日課C年はルカ年になります。ルカ福音書を中心に聖書を読んでいくことになります。同時にアドベントです。
きょうの御ことばは、受難を前にしたイエスさまの言葉です。この個所は、マルコ福音書13章1節から37節とほとんど同じですが、ルカ福音書は、皆さんもご存知ですが、心理面が生き生きと書かれているのが特徴です。

きょうの個所ですが、最終的にキリストが来られる時にどのようなことが起こるのか。
25節では「太陽、月、星に前兆が現れる」、また「海と波が荒れどよめく」
26節では「恐ろしさのあまり気を失う」

具体的になかなか想像できませんが、台風・地震・津波、洪水が起こるというレベルではありません。たとえば地球は自転しながら太陽の周りを回っている。少し狂っただけで大変なことになると言われています。巨大ないん石が地球に衝突するとか。経験したこともない恐怖に陥る。

27節、 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これは象徴的な言い方ですが、イエスさまがベツレヘムお生まれになりました。宿屋には部屋がなくて家畜小屋という劣悪なところでした。それを見守ったのは羊飼という社会の片隅にいた人達でした。それがファンタジックな話しになっています。しかし、それがキリストの本当の姿ではありません。今度は神の栄光を帯びて、万軍の主として大軍隊を率いて来られる。それは審判者です。まさに主の主、王の王、キングオブキングです。全世界の誰もが分かる形でキリストの到来を知るというのです。しかも、ある日、突然到来します。まさか、そんなことがあるもんか。たかをくくっているところに突然来ます。

34節 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

マタイ福音書でイエスさまは「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして大洪水が来てしまう。まさか、と言って人々はノアを馬鹿にし、あざわらっていました。またこうもおっしゃいました。「それはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 婚礼の祝宴があるので『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言うのですが、最後は「私はあなたがたを知りません。」と警告をしている。
たかをくくっていたのです。

34節、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」
35節、「その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。」

私たちはこういうところを読むと、恐くなります。不安になります。しかし、繰り返し申しあげます。先週も言いましたが、終末は、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。

ローマ 10:9-13「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
だからクリスチャンにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。信仰者にとって救いの完成の時となる。

皆さん、その準備はできていますか。?つまり自分の内に明確な救いの判断基準を持つことです。だからまだ洗礼を受けていない人はぜひ申し出て下さい。一方では、自分は洗礼も受けて救われた。あとは呑気に生きていけばよいのだ、というものではないのです。原罪のまったき赦し、永遠の命、永遠の救いを受け取っていますが、救いが完成したわけではないのです。

ではどうしたらよいのか、それは36節です。きょうの最重要聖句です。

36節「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

いつも、「いつも油断せずに祈っていなさい」備えあれば憂いなしともいいます。備えとは「油断せずに祈ることです」
これ以外にありません。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)
「人の子の前に立つ」がキーワードです。言い換えると神の御前になるわけです。いつでも神の前に立つことができるように祈る人でありたいと思います。具体的にどう祈ったらよいのか。?

Ⅰテサロニケ3:13「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」「聖くなければ」あるいは」「責められるところがあれば」当然、悔いあらためなければならない。私は祈らなくてもいいのだ、という人は誰ひとりいません。いずれにしろ油断せずに祈り続けることです。ぜひ祈りつつ、クリスマスを迎えたいと思います。

祈ります。


2018年11月25日 「わたしのことばは滅びない」マルコ13:24-31

13:24,だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 13:25,星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 13:26,そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27,そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 13:28,いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 13:29,そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 13:30,まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

きょうは聖霊降臨節の最後の日ですが、聖書日課B年の大みかです。来週から新しい年、アドベントが始まります。きょうの聖書個所は「終末」がテーマになっています。終末という言葉は、「この世の終り」、「民全体にくだされる最後の審判」、「義人の選別」。単なる個人ではなく民全体の最終的な裁きの時という意味です。

24節「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
25節「星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」

天変地異がおき、あらゆるものが壊滅、崩壊する。エレミヤ書、ダニエル書、アモス書などに記されています。いずれも旧約的、また黙示録的な言葉が語られています。それは新約聖書にも引き継がれます。マタイ福音書では、羊飼いが羊と山羊とをより分けるように。裁きが始まる。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)

しかし、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。私たちにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。その象徴的な預言がキリストの再臨です。信仰者にとって救いの完成の時となる。現在、私たちは、「主は必ず来られるという約束の言葉」と、「いつ来るか分からない」という言葉の間にいます。

きょうのポイントの御ことばは
マルコ 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

すべてのものはすたれて滅亡し、消えて亡くなります。しかし、主イエスの言葉は滅びない。滅びないということは、変わらないということです。今は、変化がめまぐるしい時代です。まさに「光陰矢の如し」です。時や変化は想像を超える早さと規模で繰り返されています。50年前、携帯電話など考えられませんでした。電車に乗るとほとんどの人がスマートフォンを操作している。新聞や本を読んでいる人はいません。その電車に乗るのも切符を買う人が少なくなりました。スイカとかパスモで、いわゆる電子決済をする。更にAI(人工知能)という技術が出てきました。また近い将来、産業用ロボットがウェイターや介護士として活躍すると言われています。バスやタクシーといった車も自動で運転する。それだけではない。生活スタイルも大きく変化している。若い人は結婚しない、車を買わない、家を買わない。松田にもありますが、ゴルフ場は閑古鳥が鳴いている。


しかし、変わらないものもあります。私は、茅ヶ崎の駅から歩いて10分くらいの所に「キリスト福音宣教会」という奉仕していた事務所がありました。この間、30年振りくらいで茅ヶ崎に行きました。駅前は見る影もありません。ところが私がカセットテープをよく買った小さな電気屋さんがありました。そこは変わっていませんでした。本当に懐かしい気持になりました。と同時に何かホットしました。何もかもが変わっていく世界の中にあって、変わらないものを求める傾向が人にはあるかもしれません。確かに、社会生活やテクノロジー、或いは政治形態も、どんどん変わっていくでしょう。また、変わらなければならないもの、変えなければならないものも沢山あります。しかし、変わらない拠り所を持っていることは、大切なことです。私達はどこに、その変わらないものを見つけることが出来るでしょうか。

主イエスは、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われました。主イエスは、何もかも変わる世にあって、変わらないのは、神の言葉だと語られました。
神は永遠に変わりません。その言葉も変わりません。それは「神の愛」、救いの約束です。神のみことばは決して反故になることはありません。

先週、Yさんを訪問しました。ぜん息で退院したばかりで鼻から酸素吸入していました。昔、小田原で路上生活をしていて施設を転々として、秦野にいますが、すこぶる元気でした。枕もとに聖書があって「毎日必ず読む」「聖書を読まなければ自分が狂ってしまう」と言っていました。皆さんもご存知だと思いますが、先週は世界的に大きな自動車会社の会長さんが突然逮捕されました。あるいはこの銀行は大丈夫だ、しかし、その銀行がつぶれることさえありえます。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。この世界は過ぎ行きます。しかし、神とその御言葉は永遠なのです。永遠に存在する神の言葉を聴く、信仰をもって聴きとる、信じて聴いて従う、その人は、どうなるでしょうか。その人も又、決して滅びないのです。永遠に生きるのです。「わたしのことばは決して滅びない」この真理を心に刻んでください。

祈ります。