牧師の日曜メッセージ

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1月20日の説教  「カナの婚礼」ヨハネ2:1-11
ヨハネ 2:1,それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2:2,イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。2:3,ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4,すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」2:5,母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6,さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。2:7,イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。2:8,イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。2:9,宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、2:10,言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」2:11,イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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きょうの個所、「カナの婚礼」と言われています。不思議な雰囲気のあるエピソードです。ことの善悪、あるいは道徳的訓話でもないし、律法の良し悪しでもない。また誰かの失敗を補うような話しでもない。結婚して幸せになる話しでもない。サッと読んだだけでは真理を掴みにくいところです。イエスさまと弟子達、そして母マリアが結婚式に招待された。しかし、新郎新婦の名前もわかりません。イエスさまと新郎新婦とはどこで知りあったのでしょうか。どういう関係でしょうか。
その婚礼でぶどう酒がなくなるという話しですが、当時のユダヤでは、ぶどう酒がどこでも飲まれていたわけではないようです。人々はほとんどが小作人。それほど豊かではありません。ところが結婚式のような御祝い事では盛大に振る舞う。そのために新郎新婦の家族は生活を切り詰め、貯えをし、親戚、友人、知人を招く。なぜぶどう酒がなくなったのか、理由が記されていません。しかし、招く方としては大失態です。宴の席でぶどう酒がないことは、飲みものがない有り得ない話しです。そのことが、母マリアからイエスさまに伝わりました。
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2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
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突きはなすような言い方ですが、「わたしの時」と言っています。時は神が支配する。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。」出来事の決定は人間ではなく常に神の御手のうちにある。そのことを母マリアは知っていました。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
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石の水瓶が100リットルとして、石の水瓶が6つですから重さで600キロです。これを水で満たす。大変な作業だったと思います。ここで「ユダヤ人のきよめのしきたり」とあります。ここがきょうのなぞ解きのポイントです。詳しいことは分かりませんが、モーセ律法とも関係があると思います。古来から伝わるユダヤ特有の「ならわし」、習慣となっているユダヤ教独自の「きよめのしきたり」があった。そうして身体を洗った。それが長い間繰り返し行われてきた。そのきよめの伝統儀式で使われていた水瓶があった。この水瓶の中に入れが水をイエスさまが真っ赤なぶどう酒に変えてしまうのです。繰り返します。ここがポイントです。新郎新婦の名前、ぶどう酒がなくなった理由、どうでもいいのです。ユダヤ教の古いしきたりにしがみついて、きよめの儀式を繰り返してきた。しかし、そこには真実な喜びがなかった。皆さんも気がついたと思います。石の水瓶が六つあった。六という数字、完全数の7に一つ足りない不完全数です。その六つの水瓶を全部、ぶどう酒に変えてしまう。
きょうは顕現節の第二主日です。「顕現」とは、神がはっきりと姿が現すこと。それをイエスさまは時代、歴史の転換としたわけです。古いしきたりである「石の水瓶」によるきよめの儀式は私たちを幸せにはしない。それをいくら繰り返したところで、そこには喜びはないのです。2019年、すでに始まっていますが、皆さんにとってどんな年になるでしょう。あいかわらず疲れはて、古い自分にしがみつくのでしょうか。聖書はいつも喜んでいなさいと言っています。疲れはてた時代から、新しく力を与えられる時代。それはキリストが与えてくださる喜びです。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
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わかりました。イエスさまの言われることは何でもします。そういう年でありたいと思います。古い時代は過ぎ去る。信じる者は新しくされる。「Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして最上のぶどう酒を振る舞った。
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2:10 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
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当時の祝宴ではこういうごまかしをやるのです。世の常です。酔ってしまうと、味覚が分からなくなるので、まだ酔っていない時に、美味しいぶどう酒を出して、酔っ払ったときには安いぶどう酒を出す。しかし、イエスさまによって祝宴の真っ盛りに最上のぶどう酒が出された。豊かな赤いぶどう酒は新しいメシアの時代を象徴する。来たるべき栄光の時代です。ぶどう酒は聖餐式にも使われます。キリストの血です。いのちです。キリストを信じるとき、すべてが変わる。水がキリストのいのちに変えられる。未だ来ていなかった時代が、ここにある。そうして神の御子イエスの隠された栄光が開示される。しかし、キリストを信じようとしない人には真理は隠されてしまう。
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2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。
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下働きの人達です。宴会で浮かれて騒いでいる人達は知らなかった。
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2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」----------------------------------------
私たちも水を汲もうと思います。望むものを願うならば、かなえられる。
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2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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福音書で「しるし」というと十字架の贖いという意味があります。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」というのです。2019年、私たちもイエスさまを信じ、喜びの年にしたいと思います。

祈ります。

1月13日「イエスの洗礼」ルカ3:15-17.21-22
ルカ3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


きょうは15節から22節までですが、16節から20節はテーマとはさほど関係がないので省かれています。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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民衆は、バプテスマのヨハネは、メシアではないかと考えていました。そう考えるのは、旧約のあらゆる預言者が、メシア到来を預言し、ユダヤの人々も長年にわたって待ち望んでいたのです。
そこにヨハネが現れ、イザヤの言葉を引用し、「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」そうしてヨハネは、12節にもあるように、悔い改めのバプテスマ、洗礼を授けていました。
その時にイエスさまもバプテスマを受けたという聖書個所です。きょうは時間の都合で、16節と17節は省きます。21節と22節が本題です。イエスさまが洗礼を受ける場面です。バプテスマというギリシャ語は、ご存知のように「沈める」とか「浸す」という意味です。それは罪の赦しです。イエスさまは、罪の赦しの必要のない唯一の人です。このことはヨハネも知っていたと思います。なぜ、洗礼を受けたのか。理由が記されていません。そのことを考えてみたいと思います。まず、イエスさまは、何をしていたのかが記されています。
21節、後半、父なる神に祈っていたのです。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
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「祈っておられると、天が開け、」とあります。イエスさまは祈りの人でした。大切なときは、必ず祈ります。
「ゲッセマネの祈り」「お弟子を選ぶとき」「十字架の上」でも祈りました。その他、重大な場面では必ず祈ります。そのとき、
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天が開け、 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」その祈りの答えでもあったわけです。まさにキリストが神の子として宣言されるわけです。そして父なる神の御子イエスとして祝福を受けた。またそこには聖霊の働きがあった。まさにイエスさまは父なる神の愛と喜びを全身に受けた。イエスさまは神に対してはゆるぎない信頼を持ったと思います。と同時にイエスさまは父なる神への従順、どんなに困難なことがあっても従う。それは私たちを救うためです。私たちは、キリストを通して父なる神と繋がることできるのです。すべての人に救いの道を開くことになります。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。あなたもイエスさまを通して赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。それにしてもなぜ、イエスさまが罪の赦しである洗礼を受けたのかなと思います。皆さんはどうですか。それは結構なことだよ、と思いますか。確かに神学的な説明がされていますが、それでもなぜだろうか、と思わなくもない。

そこできょうは21節のみことばを一緒に考えてみたいと思います。ここにヒントがあるような気がします。
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3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、」
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最初の「民衆がみなバプテスマを受けていた」とあります。おそらく、そこに居た、ほとんど全部の人が洗礼を受けていた。これだけの人をヨハネがひとりで洗礼を授けることは大変なことだと思います。それは、今日でも変わりません。洗礼を受けるというのは、勇気が要ります。授ける方は何でもありませんが、受ける方は緊張します。
予行演習もありません。特に全身礼となると服を着たま全身を冷たい水に浸すわけです。皆さん、「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が必要かも知れません。おそらくこのとき、長蛇の列、行列が連なりが長く延びていたと思います。それをヨハネがひとりひとり授ける、自分の番が来るまでは相当、時間がかかる。ヨハネのバプテスマの時も税人、兵士などもいたくらいですから、あらゆる人が行列していた。その行列の中にイエスさまがいたのです。皆さん、想像してみてください。しかも誰も気がつかなかったのです。

話を変えます。小田原でも12月28日から1月4日まで毎日炊き出しが行われ、石井さんや滝さんも連日、お手伝いをしました。カトリックの本田哲郎神父というの人、この方は、ホームレス支援を行っていて「釜ヶ﨑と福音」をいう本を出しています。大阪の釜ヶ﨑(あいりんちく)は日雇が多いのですが、その本の中に「炊き出しの列の中にイエスさまがいる」さし絵があります。大変印象的な絵です。つまりイエスさまは社会的に弱い立場に立たせられた人達の中に、貧しく小さくされた者の側にいるのです。しかも誰も気がついていなのです。

それは、すべての人に救いの道を開くためでした。全世界、誰であっても神を信頼するなら、救われますよ。
あなたも赦され救われますよ。そのため礎(いしずえ)となられた。そのイエスさまが、私たちと同じ罪人として受ける必要のない洗礼を受けられた。イエスさまは今も、私たちの中にいてくださるのです。そのことを心からキリストを賛美したいと思います。

 


1月6日「キリストにある霊的訓練と成長」ヨハネ3:1-15

ヨハネの福音書第3章1-17節
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。----------------------------------------
毎年1月の第1日曜日は、「年間聖句」と「テーマ」を毎年、分かち合うことになっています。すでに週報に最初のページに掲載されています。私たち聖契教団が大切にしている六つの原則の中から、一つずつ毎年取りあげています。今年で8年目になります。私たちの教会の元々のルーツは、ルターや、カルバンといった人達による宗教改革ですが、今から100年度ほど前、18-19世紀に起きたいわゆる教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動です。幼児洗礼は認めないとか、滴礼は認めないとか、黙示録にある千年王国を信じなければならない、とはいいません。いわゆるリバイバル・ムーブメントです。だから人種、民族、文化、性別、年令をこえて今、世界に広がりつつあります。だから自由教会ともいわれています。それがヨーロッパ、スエーデン、アメリカにも飛び火しました。今から70年程前にドイツ、アメリカ、スエーデンから日本に宣教師が来てつくった教会の群が各地にあります。岐阜県を中心に「同盟福音教会」岡山県「聖約教団」全国的には「福音自由教会協議会」、それと聖契教団。聖契教団は「北米カナダ福音教会」が日本で設立した団体。
英語ではカベナント教会とも呼びます。契約という意味があります。そこから聖なる契約、聖契キリスト教会ともいいます。

話しを戻しまして、聖契の教会には六つの原則があります。私なりに分かりやすい言葉でまとめますと、
一つ目は「神のことばの大切さ」
二つ目は「新しく生まれることの大切さ」
三つ目は「私たちの教会は様々な形で宣教をします。」
四つ目は「教会の交わりを大切にします。」
五つ目は「聖霊の働きを信じます。」
六つ目は「キリストにある自由を大切にします。」

きょうは二つ目の「新しく生まれることの大切さ」についてみことばを分かち合います。今年の聖句としてヨハネ3:3「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」表題として「キリストにある霊的訓練と成長」という題で6年前と同じです。イエスさまとニコデモというユダヤ人指導者との問答です。
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3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
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ユダヤ人の指導者とあります。おそらく「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会のメンバーであった可能があります。
裁判権があり、宗教的・政治的権威と持っていた。メンバーは祭司や律法学者たちです。だから学識と教養、地位と名声と権威を持っていた人であったと推測できます。
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3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
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この個所のキーワードは「知っている」という言葉です。ニコデモはイエスを知っている。なぜなら神があなたと共にいるのでなければ、あのような奇跡が起こるはずがない。自分よりも若く、無名なイエスが活躍するうわさを耳にしていました。しかし、イエスさまは
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3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
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この個所、質問のこたえになっていません。ニコデモがイエスさまに「私はあなたを知っている」といったら、こう返された。なぜ「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃたのか。私なりに考えてみました。ニコデモはイエスさまを「知っている」といいました。しかし、知っているから、その人が本物のクリスチャンであるとは言いきれません。いくら学識と教養、地位と名声があっても真実にいのちあるクリスチャンとは言いきれません。私が思うには、ニコデモの質問は、どうでもいい質問だった。イエスさまはことの本質を尋ねました。「あなたは新しく生まれましたか」英語でボーンアゲーンといいます。生まれ変わる。つまり、本当の回心の体験です。罪が赦され、聖霊によってまったく新たに生まれ変わることです。それが劇的な体験でないにしろ、本物の喜び、感謝、平安がある。
先ほど申しあげましたが、私たちの教会は教会刷新運動、教会覚醒運動、信仰復興運動から生まれた教会です。
カベナント教会は、教理的には堅苦しいことはいいません。ただし、本物を求めます。
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Ⅱコリント 5:17,だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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私たちカベナント教会は、「新しく生まれる」ことをなくてはならない体験としています。ちょうど母親の胎内から、生まれ出るという、闇から光に移される体験です。ヨハネ福音書の特徴ですが、光と闇のコントラスをいくつかの個所で記しています。きょうの個所もそうです。3:2「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」なぜ夜来たのでしょうか。昼間は人目につくし、プライドもあったのかもしれません。しかし、イエスさまはすでに見抜いていました。ニコデモは霊的には、夜の人、つまり闇の中の人でした。教養もあり、名声もあり、尊敬も受けていました。しかし、「新しく生まれる」という体験がなかった。だからこのあとのイエスさまとの問答はちぐはぐです。
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3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」
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なぜ、新しく生まれるという体験が必要なのか。私たちキリスト者が神のことばに従い、祈りと行いを持って実行する。
そのときに一番必要とするものは何か。それは力です。皆さん、生きることにかったるさを覚えていないでしょうか。教会へ行くのも、聖書を読むのがおっくうだ。祈ろうと思うのだけれど、気分がのらない。毎日がかったるい、くたびれて、だるい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。これらのものはすべて与えられます。」頭の中では分かっている。しかし、気力がない、喜びがない。それは力がない状態。
日本では、洗礼を受けても信仰を維持する力がなくなってしまう人は少なくありません。繰り返していいますが、神の御心を行う力がなくなっているからです。人間的な努力とかんばりできるわけではないのです。
聖書はいいます。
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使徒 1:8,しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
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それは二千年前でも今でも変わりません。聖霊が降るとき、神を愛し、隣人を自身のように愛する力が与えられます。自分はまだ「新しく生まれる」という体験がなくても求めるなら与えられます。「求めよさらば与えられん」です。それはあってもなくてもよいものではありません。なくては原則です。それは永遠のいのちにかかわることなのです。
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3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
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15節と16節でイエスさまは「永遠のいのちを持つため」とおっしゃています。だから永遠のいのちにかかわることなのです。「新しく生まれた」というのはいのちの始まりです。皆さん、「自分は新しく生まれた」という概念を持っているでしょうか。もたない人は、成長する、という概念もありません。だから霊的な成長がないのです。同じことを繰り返しているだけ。堂々巡りです。産まれたばかりの子ども、当たり前ですが、毎日が失敗だらけです。しかし、成長するに従って失敗をしてもそれを学習します。それと共に成熟していきます。それは一生涯続きます。時には失敗することもあるし、試練が与えられることもあるでしょう。しかし、堂々巡りはしません。成長し続けます。そして聖霊によってキリストの似姿に変えられていく。
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「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:13)。
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それが聖霊の働きです。繰り返しますが、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新しく生まれなければ、永遠のいのちもなければ、霊的訓練も霊的成長はありません。皆さん、自分の母親からオギャア、オギャアと生まれたときのことを覚えているでしょうか。?誰もいません。それは、後から分かるわけです。救いも必ずしも劇的な体験ではありません。しかし、神の御霊が導いて成長させてくださる。そのことをぜひ祈り求めてください。私たちは間違うことがあっても神のことばは間違えません。最終的には永遠のいのちを持つためです。2019年、自分の主導権を神の御霊に委ねて前進したいと思います。

祈ります。


12月30日の説教 「神殿での少年イエス」 ルカ2:41-52
御子、イエス・キリストを私達の世界に生まれさせてくださった恵みの神様、2018年最後の日曜日、私達をこの礼拝に呼び集めて下さったことを感謝致します。この一年間、私達の歩みを支えてくださったこと、また先週の礼拝では多くの方々と共に主イエスの誕生を祝い共に喜びの時を過ごすことが出来ました。そのことも感謝します。神様、教会に連なる全ての兄弟姉妹達と私達の心にかかっている方のために祈ります。病める方、その他、体調のすぐれない方々をなぐさめ、支え、癒しの御手をさしのべてくださいますように。また、CS礼拝の子ども達を今年も豊かに恵んでくださいました。来るべき年も守り導いて、心と身体を健やかに成長させてくださいますように。この街に住む町民の方々の上に良い新しい年が与えられますように。この礼拝のあなたご自身が親しく導いてくださって私達一同に新たな希望お与え下さいますように、希望を抱いて家路につくことが出来ますように、切に祈ります。貧しいこれらの感謝と祈りを主イエス・キリストの御名によって捧げます。
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先週生まれたばかりのみどりごは、一週間で12歳になりました。今でいう小学生6年生でしょうか。?
ところでイエスさまは、およそ30歳で公生涯に入られましたが、それまでどう過ごされたか、分かっていません。
その意味では、きょうは貴重な幼少期の様子を伺い知ることができます。当時、ユダヤの人々は、エルサレム順礼を毎年、過越の祭りにあわせて行っていました。ナザレからエルサレム神殿までおよそ100キロの旅です。
ところがそこで思いも寄らない事件が起きます。
<2:41-45>
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少年イエスは行方不明になります。
当時、順礼団を組織して旅をするわけですが、エルサレム順礼を終えて帰り道でイエスが見当たらないことに気づきます。ごったがえす過越祭で子どもが迷子になることは有り得る話しですが、
両親は、大変な思いで探しつつエルサレムまで戻ります。
<2:46-48>
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イエスはエルサレム神殿にいました。そして教師達、つまり祭司や律法学者のまん中に坐って討論していた。
この時、人達は「イエスの知恵に驚いた」とあります。この時すでに普通の子どもとは思えないような知恵があった。
それはわきに置いておいて、両親は三日間も探したわけで怒り心頭。ところが、意外な言葉が返ってきます。
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2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
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なぞめいた言葉です。ミステリーな、なぞ解きみたいな言葉です。
誰が聞いても拍子抜けしてしまう。皆さん、この言葉の意味、おわかりでしょうか?私も分かりません。
ご両親は「親族や知人の中」にいると思って捜しまわったが、イエスは「自分の父の家にいる」と言われた。
どんな意味か、さっぱり分かりません。

ただしヒントがあるとすれば、二つの言葉です。ひとつは41節の「過越」という言葉です。エジプトで奴隷であったユダヤ人の先祖が、モーセに率いられてエジプトを脱出したとき、神はエジプト中の初子(ういご)を殺したが,小羊の血を入口に塗ったヘブル人の家だけは過ぎ越したという出来事です。そしてキリストは過越の祭りで十字架にかかります。キリストの十字架と関係があります。二つ目は46節の「三日の後」ということばです。これはキリストの復活用語です。
キリストは三日目に死人のうちより復活した。つまり「自分の父の家にいる」という言葉に中に十字架と復活が隠されているのかもしれません。しかし、私はうまく説明できません。

50節、両親もイエスの話された言葉の意味が分からなかった、ということです。
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2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
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きょうのポイントは「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ということばです。新共同訳では「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」こちらの訳が良いかも知れません。結論から言いますと、ここが母マリヤの偉いところだと思います。イエスの不可解な行動があって、自分達もそれに三日間振りまわされた。大変だった。ここで母親として、息子にガツンということもできたと思います。「お前は、何を言っているのだ。私たちは心配したんだよ」と言うこともできた。しかし、心に納めたのです。腑に落ちないまま心に納めたのです。ここでもう一度話しを整理してみましょう。三日間、「親族や知人の中」を捜しまわった。どの親でも例外なくそうしたと思います。これは当たり前です。だれが考えても当然そう思います。しかし、イエスは「わたしは父の家に居る」と言った。

つまり私たちの当たり前は神の当たり前、とは限らない。私の当然が、神の当然だとは限らない。私たちがこうあるべきだと思うことが、神も同じように思うとは限らない。なぜでしょうか。人間に限界があります。なぜなら神のご意志を、イエスさまのすべてを理解できるわけではない。信仰とは納得することではありません。

母マリヤはその日の出来事を、そのまま心に納めたのです。開かないドアを無理にこじ開けようとしなかった。イエスのおっしゃった意味が分からなくても、胸の中に納め、暖め続けたのです。その時分からなくても、時間をかけることによって聖書の言葉が分かることもあります。言い換えれば、あわてず、騒がず神にゆだねたということです。
聖書は「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
私たちは限界があります。しかし、ゆだねることによって乗りこえることができるのです。神はあなたが「心に納めたこと」を覚えていて下さり、時が来れば必ずことをなしてくださるのです。マリアの讃歌の中に(ルカ 1:45)「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」2018年も明日で終わります。私たち個人のことであってもも、教会のことであっても様々なことがありました。神さまはそのことを覚えていて下さる。2019年は「私も父の家にいる」とひとりひとりが告白できる年になると信じています。

祈ります。


12月23日の説教 ルカ2:1-20
ひとり子をお与えになったほどに、私共を愛された全能の神様、きょう降誕日を迎えました。そして皆さんと共にこの礼拝に連なることができました。どうか、一人、一人を祝福してくださいますように。あなたは、まさに、私たちに救い主を送ってくださり、主イエスにおいて新しい天と新しい地を、新しい心と新しい願いを、新しい希望を全ての人に送ってくださいます。それゆえに祈ります。仮設にいる人達、路上で生活しなければならない人達、少年院や拘置所ににいる人達、また児童相談所に預けられている子ども達。戦争のために難民となった人達、饑餓の中にいる子ども達、あるいは突然の事件や事故のために苦しんでいる人たち、また様々な差別や偏見の中にいる人たちを助けてください。どうか、いと高きところでは栄光があなたにあり、地上では平和が御心にかなう人々にありますように。私たちにあなたと共に生きる喜び、また多くの隣人、兄弟姉妹と共に生きる喜びを与えてください。これから御ことばを分かち合いますが、話す言葉と聞く耳をお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストによって祈ります。
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クリスマス、おめでとうございます。松田町もこの時期、子どもの館にイルミネーションが輝いて夜は、大勢の人が訪れています。クリスマスは、ヨーロッパが本場だと思いますが、サウジアラビア、イランなどムスリムの人達、インドのンドゥーの人達もイベントとして楽しむようです。なぜ、国や人種や宗教を超えて楽しむのか。私も正確なところは分かりませんが、何かホットする、おだやかな気持になれるのだと思います。ご存知のようにクリスマスの原点は聖書にあります。聖書が教えるクリスマスは何なのかを一緒に読みたいと思います。

2:1-20を司式者が読んでくださいましたが、
<1節から3節までをもう一度読みます。>
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1節の全世界というのはローマ帝国のことで、「住民登録せよという勅令」は皇帝アウグストが出した命令です。
アウグストは紀元前27年に在位しています。当時のユダヤはローマ帝国の支配下、今でいう植民地です。何のための住民登録なのか、それは税金を取るためだったといわれています。当時は戦国時代、絶えず隣国と戦争をしていました。そのため税集、それを軍事費に使うためです。当時、皇帝アウグストは世界一の絶大な権力者で、人々はアウグストを神格化し、礼賛していました。そして軍事力、経済力にものを言わせて支配していました。
ユダヤの人々は政治的にも、経済的にも、宗教的にも虐げられていました。
<4-5節を読みます>
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住民登録のために、マリヤとヨセフが、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に行きました。ナザレからベツレヘムまで140キロです。お腹の子どもにとっては危険な旅でした。
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<6-7節を読みます>
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ベツレヘムに着くと宿を探しましたが、宿屋はどこもいっぱい。理由は分かりません。同じように住民登録の人達がすでに泊まっていたのかも知れません。いずれにせよ、わざわざ「彼らのいる場所がなかった」と記しています。子どもが産まれるというのに「いる場所がない」とは、実に寂しい、辛い話しです。そして、「2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。」とあります。「飼い葉おけ」とは牛とか馬が草を食べるときの桶です。おそらく家畜小屋です。暗くて不衛生な場所だったと思います。
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2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
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羊飼い達が出てきます。「羊飼」は古代社会では最下層、もっともレベルの低い人達でした。まともな人間として扱われませんでした。ですから裁判でも証言することがゆるされなかった。
<2:9-14>を読みます。
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9節で「主の御使い」が登場します。聖書では重要場面では必ず神の御使い、天使が登場します。
ここがクリスマスのクライマックスです。13節では「その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。」この場面、天の軍勢による大合で讃美歌が歌われ神の栄光が照らす。実に絵画的です。この時期、毎年、ベートーベンの第9が歌われます。歓喜の歌声です。その他にもバッハのクリスマス・オラトリオ、ヘンデルのメサイヤ、シューベルトのアヴェマリア。あるいは数多くの讃美歌が生まれました。古今東西、さまざまなクリスマス・ソングが歌われています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」恐れではなく喜びです。あなたも喜んでいいんですよというメッセージです。
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話しを戻しますが。世界中で人種や宗教を超えてクリスマスが楽しまれます。なぜでしょうか。?
本当は皆、心の底では、おだやかに、平和に、過ごしたいと思っています。軍事力や経済力で人を支配したり、支配されたくないのが本音です。しかし、現実は力とかお金といってもよいかも知れません。皇帝アウグストのような人が居るのだというのではなく、それは私たちの中にもあります。自己中心な思いです。自分さえ良ければという思いです。そのことを聖書は「罪」ということばで言い表しています。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そして三日目に甦って下さいました。ここに神の愛が示されました。そして今も生きておられます。私たちは祈ることのよってキリストと繋がることができる。そこに赦しがあります。永遠の命があります。これが私たちに届いた喜びの福音、喜びの知らせです。そのためにキリストは生まれて下さいました。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と記しています。飛躍しますが、人によっては職場や学校、家庭などで、居場所がないと感じる人は少なくない。そこには孤独があります。「相手から関心を向けられていない」という感覚です。
イエスさまは、どんなに低く貧しい境遇に置かれても、その人の気持ちが分かることではないでしょうか。?
私たちの教会も今、改修計画があって来年はチャペルのとなりをかふぇにして「居場所づくり」をする計画です。
クリスマスは、私たちを罪から救い、新しいいのちを与え、神をほめたたえ、隣人に仕える生活を与えて下さるキリストを、私の暗闇の心お迎えするのが本当のクリスマスです。皆さんの上に、クリスマスの祝福がありますように。

祈ります。


12月16日「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(ルカ3:7-18)

先週の続きになります。
3章7節で「それで」とありますが、3節で「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」。
「それで」、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と勧めています。そのために具体的な行いから、クリスマスを迎える心構えを教えています。きょうの個所は、ヨハネの歯に衣[きぬ]着せぬ裁きの言葉が随処で響きわたって切迫感、緊迫感があります。たとえば、
7節「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
9節「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
17節「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
いずれも裁きの言葉です。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。
神の裁きが始まりますよ。裁くとは、あなた自身の善悪についての神のご判断です。
今のままで良いのですか。?
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
「まむしのすえ」とは神の反逆者。誰であっても神の怒りから逃れることはできません。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、
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3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
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8節の「実を結ぶ」がポイントになっています。
皆さんもご存知ですが、聖書では「実を結ぶ例え」が数多く出てきます。
ことばでは調子良く「ハイ、ハイ、分かりましたとか、そうします。」と言います。
しかし、結果が伴うとは限りません。
実を結ぶとは、時間がかかります。土を耕し、種を撒いて、水をやり、成長して実がなる。
時には何年もかかります。イエスさまもおっしゃっています。
「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
「実によって彼らを見分けることができるのです。」
その人が真実かどうか、実を見ると分かります。
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。」
ユダヤ人は民族意識が非常に強いと言われています。それは旧約聖書に民族の歴史を持っているからで「先祖はアブラハムだ」。自分達は神に選ばれたというプライドです。
しかし、神の前では通用しません。「斧はすでに木の根元に置かれています。」
「悔い改めにふさわしい実」を結んでいるか、いないかのです。それを聞いた群衆は身震いします。
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3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
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すがるような思いで「どうすればよいのか」と尋ねました。ヨハネが「この荒野で40日間の祈りと断食だ」といえば、皆そうしたかも知れません。難行苦行です。しかし、そう言わなかった。
拍子抜けするほど単純で平凡なことを言いました。
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3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
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特に自分よりも困っている人に「着るもの」や「食べる物」を差しあげなさい。
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3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
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取税人は職権を利用し、お金を余計にかすめ取ることが多かった。
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3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
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兵士も給料が少なかったので、時には暴力やおどしでお金を得ていた。ヨハネの言ったことはきわめて常識的な教えで自己中心的な生き方ではなく、隣人を大切にすることです。イエスさまもおっしゃた、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。またヨハネ自身も謙そんな人でした。
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3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
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そのことを察知してたので、イエスさまを紹介します。ここがクライマックスです。
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3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
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「聖霊と火のバプテスマ」は解釈が難しいのです。やがて起こるペンテコステの救いなのか、単なる清めなのか。
あるいは世の終りの刑罰なのか。私もうまく説明できません。いずれにしろ聖霊の働きがなければ、罪を悔いあらためてイエスさまを信じることはできません。火というのは罪の汚れを焼きつくすことかもしれません。
キリストを信じて救われるというのは、心と身体と魂の救い。全人格的な救い。完全な清めと無条件の赦し。永遠のいのちが保証される。きょうはヨハネの裁きの言葉が語られました。クリスマスが近づいています。主はそこまで来ていますよ。きょうのポイントとして、神の裁きが始まりますよ。しかし、同時に恵みの時でもあります。
もし、あなたが神に向かって方向転換しようとするなら、そこに恵み、喜びがあります。
あなたはどちらを選択するですか、裁きか、恵みか。
最後の18節はルカ自身の言葉です。ルカは悔い改め、恵みとして受け取ります。
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3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
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福音という言葉が入っています。「福音」とは喜びのおとずれです。
クリスマス、それは喜びの到来。喜びそのものが、やって来る。
暗い顔をしなくていい。生きていてよかったね。あなたも喜べるんだ。喜んでいいんだ。
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ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
   4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
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きょうの個所は、ヨハネの裁きの言葉が随処にある。しかし、神に向かって方向転換するなら大きな喜びを受け取ることができます。あなたはどちらを選択するですか、裁きか、喜びか。

祈ります。


12月9日 「あらゆる人が神の救いを見る」ルカ3:1-11

バプテスマのヨハネの登場です。イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。旧約時代の最大の預言者であり、キリストを新約に招き入れる人として称賛しています。実際にヨハネの登場以来、福音の扉が開かれました。聖書は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と語っています。こうしてヨハネは「来たるべきエリヤ」として旧約と新約の橋渡しをする人となりました。
1-2節が、ルカはヨハネの登場を興味深く語っています。
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3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
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神のことばが下ったというのですが、1-2節には私たちもよく知っている名前が出てきます。
ポンテオ・ピラト、ユダヤの総督ヘロデ、大祭司アンナス、カヤパ。
エルサレムで豪勢に暮らしていた時の権力者、国の中枢にいた政治家、神殿の宗教指導者達です。
そして権力による支配と維持を追求していた人達です。
神のことばに導かれたヨハネは何を語ったのか。?
3節、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」とあります。
罪とは「神の律法に背く」ことですが、「的外れ」「すじ違い」のことです。
要するに頓珍漢な生き方です。そこからの「悔い改め」は「自分の心を変える」という意味です。
心を変えなければ、キリストを救い主として迎入れることは不可能です。
自分を変えるとは、なにか小手先で手直しすることではありません。
生き方の根本的な方向転換です。ヨハネは預言者イザヤの言葉を引用します。
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3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
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キリストが私たちのただ中にやって来られる。だから、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と。しかし、私たちの心の中は我欲でいっぱいです。主の道を用意しなさいと言われても、3節にあるようにまるで「デコボコ道」です。まるで谷や山のようになっている。しかし、罪を悔いあらためて洗礼を受けるときに、デコボコ道は平らになって、キリストをお迎えできるようになるというのです。
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3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
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きょうはクリスマスを前に、キリストをお迎えするには、具体的にどうしたらよいのかということですが、
パウロの手紙ですが、ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
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1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。
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パウロの祈りですが、私たちの祈りでもあります。ポイントは、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」「真の知識と識別力」が必要だというのです。どこから与えられるのでしょうか。それは聖書のことばです。神のことばです。ルカ福音書の個所でも、神のことばが下ったのはピラトでも、ヘロデでも、アンナスでも、カヤパでもないヨハネに下った。そのときヨハネは正しい言葉が与えられ、正しい判断ができたのです。今、情報があふれています。そして多くの人が必要のない知識、情報に振り回されてます。
愛が豊かになっていくためにはどうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要になります。そうでなければ、真にすぐれたものを見わけることができません。単なるお人好しとか、同情心があるとかはダメです。
どうしても「真の知識とあらゆる識別力」が必要です。神さま、私に真の知識とあらゆる識別力をお与えくださいと祈る必要があります。
このときに注意することは、「純真で非難されるところがなく」とパウロは言っています。純真とは謙遜ということです。人は知識や識別力を持つとき、思いあがるのです。
なぜ、神のことばがピラトやヘロデ、アンナスやカヤパに下らなかったのか。
それは「純真」でなかったからです。彼らは、権力による支配と維持を追求していたからです。
私たちに「真の知識とあらゆる識別力」を与えてくれるのは、とりもなおさず聖書です。それが神の国の価値観になります。このアドベントの期間、「真の知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになるように祈りたいと思います。

祈ります。


12月2日 「人の子の前に立つことができるように」ルカ21:25-36

21:25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
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聖書日課C年はルカ年になります。ルカ福音書を中心に聖書を読んでいくことになります。同時にアドベントです。
きょうの御ことばは、受難を前にしたイエスさまの言葉です。この個所は、マルコ福音書13章1節から37節とほとんど同じですが、ルカ福音書は、皆さんもご存知ですが、心理面が生き生きと書かれているのが特徴です。

きょうの個所ですが、最終的にキリストが来られる時にどのようなことが起こるのか。
25節では「太陽、月、星に前兆が現れる」、また「海と波が荒れどよめく」
26節では「恐ろしさのあまり気を失う」

具体的になかなか想像できませんが、台風・地震・津波、洪水が起こるというレベルではありません。たとえば地球は自転しながら太陽の周りを回っている。少し狂っただけで大変なことになると言われています。巨大ないん石が地球に衝突するとか。経験したこともない恐怖に陥る。

27節、 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これは象徴的な言い方ですが、イエスさまがベツレヘムお生まれになりました。宿屋には部屋がなくて家畜小屋という劣悪なところでした。それを見守ったのは羊飼という社会の片隅にいた人達でした。それがファンタジックな話しになっています。しかし、それがキリストの本当の姿ではありません。今度は神の栄光を帯びて、万軍の主として大軍隊を率いて来られる。それは審判者です。まさに主の主、王の王、キングオブキングです。全世界の誰もが分かる形でキリストの到来を知るというのです。しかも、ある日、突然到来します。まさか、そんなことがあるもんか。たかをくくっているところに突然来ます。

34節 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

マタイ福音書でイエスさまは「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして大洪水が来てしまう。まさか、と言って人々はノアを馬鹿にし、あざわらっていました。またこうもおっしゃいました。「それはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 婚礼の祝宴があるので『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言うのですが、最後は「私はあなたがたを知りません。」と警告をしている。
たかをくくっていたのです。

34節、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」
35節、「その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。」

私たちはこういうところを読むと、恐くなります。不安になります。しかし、繰り返し申しあげます。先週も言いましたが、終末は、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。

ローマ 10:9-13「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
だからクリスチャンにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。信仰者にとって救いの完成の時となる。

皆さん、その準備はできていますか。?つまり自分の内に明確な救いの判断基準を持つことです。だからまだ洗礼を受けていない人はぜひ申し出て下さい。一方では、自分は洗礼も受けて救われた。あとは呑気に生きていけばよいのだ、というものではないのです。原罪のまったき赦し、永遠の命、永遠の救いを受け取っていますが、救いが完成したわけではないのです。

ではどうしたらよいのか、それは36節です。きょうの最重要聖句です。

36節「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

いつも、「いつも油断せずに祈っていなさい」備えあれば憂いなしともいいます。備えとは「油断せずに祈ることです」
これ以外にありません。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)
「人の子の前に立つ」がキーワードです。言い換えると神の御前になるわけです。いつでも神の前に立つことができるように祈る人でありたいと思います。具体的にどう祈ったらよいのか。?

Ⅰテサロニケ3:13「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」「聖くなければ」あるいは」「責められるところがあれば」当然、悔いあらためなければならない。私は祈らなくてもいいのだ、という人は誰ひとりいません。いずれにしろ油断せずに祈り続けることです。ぜひ祈りつつ、クリスマスを迎えたいと思います。

祈ります。


2018年11月25日 「わたしのことばは滅びない」マルコ13:24-31

13:24,だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 13:25,星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 13:26,そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27,そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 13:28,いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 13:29,そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 13:30,まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

きょうは聖霊降臨節の最後の日ですが、聖書日課B年の大みかです。来週から新しい年、アドベントが始まります。きょうの聖書個所は「終末」がテーマになっています。終末という言葉は、「この世の終り」、「民全体にくだされる最後の審判」、「義人の選別」。単なる個人ではなく民全体の最終的な裁きの時という意味です。

24節「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
25節「星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」

天変地異がおき、あらゆるものが壊滅、崩壊する。エレミヤ書、ダニエル書、アモス書などに記されています。いずれも旧約的、また黙示録的な言葉が語られています。それは新約聖書にも引き継がれます。マタイ福音書では、羊飼いが羊と山羊とをより分けるように。裁きが始まる。「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル9:27)

しかし、キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、新しいいのちを与えるために復活したことによって、確かに、この世の終り、破壊とか破滅という要素もあるのだけれど、むしろ、救いの時、あるいは希望のときとなりました。私たちにとっては「今は恵みの時、今は救いの日」になるのです。その象徴的な預言がキリストの再臨です。信仰者にとって救いの完成の時となる。現在、私たちは、「主は必ず来られるという約束の言葉」と、「いつ来るか分からない」という言葉の間にいます。

きょうのポイントの御ことばは
マルコ 13:31,この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

すべてのものはすたれて滅亡し、消えて亡くなります。しかし、主イエスの言葉は滅びない。滅びないということは、変わらないということです。今は、変化がめまぐるしい時代です。まさに「光陰矢の如し」です。時や変化は想像を超える早さと規模で繰り返されています。50年前、携帯電話など考えられませんでした。電車に乗るとほとんどの人がスマートフォンを操作している。新聞や本を読んでいる人はいません。その電車に乗るのも切符を買う人が少なくなりました。スイカとかパスモで、いわゆる電子決済をする。更にAI(人工知能)という技術が出てきました。また近い将来、産業用ロボットがウェイターや介護士として活躍すると言われています。バスやタクシーといった車も自動で運転する。それだけではない。生活スタイルも大きく変化している。若い人は結婚しない、車を買わない、家を買わない。松田にもありますが、ゴルフ場は閑古鳥が鳴いている。


しかし、変わらないものもあります。私は、茅ヶ崎の駅から歩いて10分くらいの所に「キリスト福音宣教会」という奉仕していた事務所がありました。この間、30年振りくらいで茅ヶ崎に行きました。駅前は見る影もありません。ところが私がカセットテープをよく買った小さな電気屋さんがありました。そこは変わっていませんでした。本当に懐かしい気持になりました。と同時に何かホットしました。何もかもが変わっていく世界の中にあって、変わらないものを求める傾向が人にはあるかもしれません。確かに、社会生活やテクノロジー、或いは政治形態も、どんどん変わっていくでしょう。また、変わらなければならないもの、変えなければならないものも沢山あります。しかし、変わらない拠り所を持っていることは、大切なことです。私達はどこに、その変わらないものを見つけることが出来るでしょうか。

主イエスは、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われました。主イエスは、何もかも変わる世にあって、変わらないのは、神の言葉だと語られました。
神は永遠に変わりません。その言葉も変わりません。それは「神の愛」、救いの約束です。神のみことばは決して反故になることはありません。

先週、Yさんを訪問しました。ぜん息で退院したばかりで鼻から酸素吸入していました。昔、小田原で路上生活をしていて施設を転々として、秦野にいますが、すこぶる元気でした。枕もとに聖書があって「毎日必ず読む」「聖書を読まなければ自分が狂ってしまう」と言っていました。皆さんもご存知だと思いますが、先週は世界的に大きな自動車会社の会長さんが突然逮捕されました。あるいはこの銀行は大丈夫だ、しかし、その銀行がつぶれることさえありえます。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。この世界は過ぎ行きます。しかし、神とその御言葉は永遠なのです。永遠に存在する神の言葉を聴く、信仰をもって聴きとる、信じて聴いて従う、その人は、どうなるでしょうか。その人も又、決して滅びないのです。永遠に生きるのです。「わたしのことばは決して滅びない」この真理を心に刻んでください。

祈ります。